日々の想い(61)「走れ、かもしか群団」

 「タッ、タッ、タッ,タッ、タッ」今日もまた後ろから聞こえて来る足音。それは、わたしを追い抜いて走って行く「群れ」、名付けて「かもしか群団」の足音です。

  毎朝、武庫川を散歩していると、わたしはこの「群れ」に出会います。確かめたことはありませんが、恐らくそれはH学園の陸上部の生徒達(たぶん高校生)だと思います。

  一人ひとり別々に走っているときも素敵ですが、圧巻は皆が「群れ」をなして走っているときです。とにかく走るフォームが美しい。武庫川を走っている他の人たちには申し訳ないのですが、比べものになりません。

  わたしはそれを見る度に、「やっぱりスポーツでは、基本的なフォームが大事なのだな」と痛感させられるのです。

  そう言えば、かの松坂大輔投手も全盛時代には、その投球フォームの美しさが少年野球のこどもたちのお手本になる、と新聞に書かれていたことを思い出します。

  プロ野球の観戦をしていても、ホームランを打った打者のフォームは美しいものです。

  そしてそのことはまた、生きて行くことにも当てはまるのかもしれません。

  わたしたちが人として生きて行く時に必要な美しいフォーム、それはいったいどんなものなのでしょうか。

  清く、正しく、それこそ美しく、何の落ち度もないように生きて行く、それが人生を歩む美しいフォーム、ではないように、わたしには思えるのです。

  作家の山本周五郎は、たとえ自分はどぶに落ちて死のうとも、それでも前向きに倒れて死にたい、と言ったそうです。

  その話をしてくださった日本文学の教授の説明では、つまり周五郎は、死ぬ時にも最後まで前向きに、たとえその身がどぶに落ちようとも、真理をつかんで死にたい、そう語ったのだ、ということです。

  わたしたちの人生は、美しいことばかりで飾り立てることなど出来ないものです。どんな人であったとしても、人には決して見せることの出来ない、そういう人生の場面を持っています。

  だから、そういう意味では、わたしたちは美しくない生き方しか出来ないのかもしれません。

  しかしたとえこの身が汚れていようとも、一体「今」自分が何を見ようとしているのか、それが大切だ、ということです。

  醜く、汚く、罪に染まった人生を歩んで来た、そんな自分であったとしても、大切なのは「今」その人が何を見、何と向き合って生き、そして死のうとしているか、です。

  そして、「神を信じる」ということもまた、きっとそういうことなのです。なぜなら、神は心砕かれた者の傍らにこそ、立っていてくださるからです。

  だから、大切なのは「今」です。真理を求め、神を求めて生きて行こうとする、その「今」の生き方、生きる構えの中に、人が人として生きるための美しいフォームが宿っているのです。

  わたしたちも「かもしか群団」のように、美しく人生の道程を走って行きたいものです。

                                                                  (甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)