聖書随想(28)「永遠を想う」

甲子園福音

2018年1月7日発行 128号

 

聖書随想(二八)「永遠を想う」

 

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」
(伝道の書三章一一節 口語訳聖書)

年のはじめにふと頭に浮かんだのが、この聖句でした。実はこの言葉は、昨年ある方の葬儀の説教で用いたものでもあります。

人は生まれる前の自分のことを知りません。そして勿論、死んだ後の自分のことも知りません。もっと言うならば、人は自分の「死」というものを経験的に知ることができません。なぜなら「死」を経験するその時に、人は既に死んでいるからです。そしてそれは、命を与えられる前についても同じことです。
ここで言われる「永遠」とは、まさにその人が知りえない生の前、死の後の事柄です。そしてその、人が本来知りえない事柄を、それでも人は思うことができるように造られた、と聖書は語るのです。たとえそれが完全な思いではないにしても、です。
ですから、ここで言われる「永遠」とは、一言でいうならば「人知を超えた事柄」ということになる訳です。

しかし、聖書に記されている「永遠」についての言葉は、それだけではありません。
たとえばこのような言葉が書かれています。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です。」 (ヘブライ人への手紙一三章八節)

「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。」(黙示録二二章一三節)

これらの言葉を通して語られている「永遠」とは、一体どういうものでしょうか。それは、永遠とはいつも「今」である、ということです。
言葉を代えて言うならばこういうことです。イエス・キリストという方には、過去形や未来形はありません。キリストにおいてあるのは、いつも現在形です。キリストにとっては、「昨日おられた」(過去形)、「明日おられるだろう」(未来形)はなくて、いつも「今」「おられる」(現在形)、なのです。

このようにキリストは、昨日も今日も明日も、いつも「今」おられる、だからこそキリストは、時の初めであり終わりである方、つまり「時」を超えて、いつも「今」ある方だ、と言われるのです。
このように、聖書によれば「永遠」とは、いつまでも終わりなく続く時間の流れのことではなくて、時を超えて、いつも「今」であることなのであり、いつも「今」、神がイエス・キリストを通して、わたしたちと共にあることを意味しているのです。

その他にも聖書には「永遠の命」という言葉が出て来ます。或いは、一般的に「天国」と言われる「神の国」という言葉が出て来ます。
「永遠の命」も「神の国」も、時の流れに関わることではありません。
これらの言葉が語っているのは、まさに「永遠」に関わることです。「神の国に入る」(=俗に言う「天国に行く」)ということも、「永遠の命を得る」ということも、つまりは、その人がいつも、時を超えて「今」、神と共にある、ということなのです。

わたしたちが生まれる前、そして死んだ後という時の流れを超えて、神様はいつも「今」、イエス・キリストを通して、わたしたちと共にいてくださる、これこそが「永遠」に関わる、キリスト教の救いのメッセージです。

「神はわれわれと共におられる」(マタイ一・二三)、この言葉の意味を、深く味わいながら歩む一年でありましょう。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)