日々の想い(29)「わたしの歩んだ道 信仰・神学・そして教会⑩」

甲子園福音

2015年4月5日発行 96号

 

日々の想い(二九)「わたしの歩んだ道 信仰・神学・そして教会⑩」

 

この一〇か月に亘って、「わたしの歩んだ道」を記してきました。なぜ長々とこのようなことを書いて来たのかと言いますと、それは現在のわたし自身の信仰理解、神学理解を皆さんに伝えたかったからなのです。

わたしの仲間の牧師の一人がこのような話をしてくれました。ある教区のある地区の牧師会に出席した時、その人がこのように発言しました。「今の時代状況の中で、わたしたちは福音の真理とは何なのかをしっかりと見出さなければならない」と。すると、その人と考えを異にする牧師がすかさずこう言ったそうです。「皆さん、聞きましたか。この人は牧師のくせに真理とは何かも分かっていないようです。」

この牧師同志のやり取りが何を意味しているか、皆さんにはお分かりでしょうか。
福音の真理とは何か、それは聖書に記された真理、つまり、十字架のイエス・キリストによる罪の赦しと救いのことである、これが、後者の牧師が言いたかった「牧師ならば当然知っておくべき真理」ということになる訳です。

しかし果たしてそうなのでしょうか。本当にそれが聖書に記された唯一の真理なのでしょうか。聖書が証している真理は、実はもっと多様なものなのではないでしょうか。
たとえば福音書を見てみましょう。マルコ福音書の語る福音のメッセージ、それは一言でいえば、「十字架のイエスの跡に従え」です。ルカ福音書はどうでしょうか。ルカ福音書は、どんな時にも共におられ、見つめてくださるイエス・キリストを福音として証ししています。そしてマタイ福音書では、イエスが語る律法の完成としての愛の教えこそが、福音なのです。

そして実は、パウロ自身も「十字架による罪と赦し」を、その中心的なメッセージとしては語っていません。現代の聖書学者によれば、それはむしろエルサレム教会が語っていたことであって、パウロ自身が語ったのは「十字架の神学」、つまり、十字架と復活のイエス・キリストに表わされた、人間の弱さとその中に宿る神の力を証しすることが、そのテーマだったのです。
このように聖書をよく読んでみると、福音書やパウロが語っている福音の真理は決して一つではありません。

ではなぜ福音の真理が、そのような様々な形で表現されているのかというと、それは福音書の著者たちやパウロが、自分たちの生きている時代状況の中で、何が福音の真理かを問う姿勢を持っていたからなのです。

つまりこういうことです。聖書の言葉とそこに宿る福音の真理とは、抽象的、観念的な救いを語るものでは決してなく、それぞれの時代の信仰者が、その困難な時代状況からの問いかけを受け留めつつ聞いた、非常に具体的な救いのメッセージであったということです。

ですからわたしたちも、この聖書の言葉を自分たちへの語りかけとして聞くためには、今の時代状況からの問いかけを受け留め、何が福音の真理なのかを見出そうとする姿勢を持たなければならないのです。

しかしながら、今の時代状況からの問いかけを聞くというようなことは、ただ新聞やテレビのニュースを見聞きするだけでは出来ないことです。そのためにわたしたちは、出て行って、人と出会うことが必要なのです。(続く)

 

(甲子園教会牧師 佐藤成美)

 

四月の集会案内
○映画の夕べ 四月一一日(土)午後六時 於 プレイルーム
次回は、『幕末高校生』を鑑賞します。