日々の想い(30)「わたしの歩んだ道 信仰・神学・そして教会⑪」

甲子園福音

2015年5月3日発行 97号

 

日々の想い(三〇)「わたしの歩んだ道 信仰・神学・そして教会⑪」

 

讃美歌21の334番「よみがえりの日に」の6番に、このような歌詞があります。「心を燃やして現場にかえり、『主はよみがえった』とイエスを伝えよう」

ここで使われているこの「現場」という言葉はかつて、わたしが最も嫌いな言葉の一つでした。「現場の神学」という言葉もありましたが、これもわたしには全くぴんとこないものでした。神学とはもっと深遠なものであって、現場から何が生まれるだろうか、これがかつてのわたしが持っていた浅はかな理解だったのです。
しかし今になってみてようやく、この「現場」という言葉が何を言わんとしているのか、そのことの意味が、わたしにも分かるのです。

先月の「日々の想い」にも書きましたように、神学は現実との出会いの中から生まれてきます。福音書の著者たちやパウロもまた、それぞれが出会う現実、その「現場」からの問いかけを受けて、その神学を発展させたのです。このように新約聖書が書かれた時代から、神学は現実の様々な状況、様々な人々との出会いの中で、生まれてくるものなのです。

今から一〇年ほど前、ある県で米軍基地撤去の運動の代表を務めているひとりの牧師の話を聞いたことがあります。なぜこの牧師がその運動に関わるようになったのか。それは、決して彼の政治的な関心によるものではありませんでした。ある日、一人の少女とその家族が、彼の教会を訪ねてきたそうです。そしてその人たちが涙ながらに訴えるところによれば、その少女が米兵にレイプされた、というのです。そのような訴えを聞いたその牧師は、そこで初めて米軍基地の問題の深刻さに気付かされるのです。そして、教会の牧師として、その少女と家族が抱える問題にどのように関わって行けば良いのかを考える中で、彼は次第に問題の根源である米軍基地を撤去させる、その運動に関わるようになって行ったのです。

この牧師の姿に表れているもの、それはまさに「現場の神学」を育もうとする牧師の姿です。そして実は、この二〇年に亘るわたし自身の牧会者としての歩みの中で、今、現在、わたし自身が痛切に感じていることも、このような「現場の神学」を育むことの大切さなのです。

沖縄の米軍基地の問題、福島の原発事故による放射能汚染の問題、或いは、釜ヶ崎の日雇い労働者の住民票消除による選挙権喪失の問題、これらのことは、決して政治の問題ではありません。そこに現実に生き、悩み苦しんでいる人たちがいて、そしてその人たちと出会った教会があり、牧師たちがいる、ということです。そしてそれらの教会と牧師たちは、まさにその置かれている現場において、聖書の言葉に押し出されながら、「現場の神学」を育もうとしているのです。

主イエス・キリストの福音は、現実から離れた、観念的な救いを語っているものではありません。神様に造られた命の尊さを語り、神様の愛を伝えるイエス・キリストの福音は、この現実の世界に平和と愛をもたらすためのものなのです。
わたしたちも、復活のイエス・キリストの愛と平和を携えて、それぞれが遣わされている「現場」にいつも立ち帰り、様々な人たちと出会いながら、歩み続ける者でありたいのです。

 

(甲子園教会牧師 佐藤成美)

 

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