日々の想い(31)「復活を信じる」

甲子園福音

2015年6月7日発行 97号

 

日々の想い(三一)「復活を信じる」

 

「復活を信じる」とはどういうことでしょうか。何年も教会に来ておられる方であっても、「復活ってなんですか」と人から問われれば、戸惑われるのではないでしょうか。

先週、2年前に天に召されたSさんの記念会が執り行われました。Sさんの愛唱聖句は、恩師から送られた本に記された「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ一〇・三九)、そしてSさんは生前から「わたしは復活を信じます」とおっしゃっておられたのです。

そのようなSさんの記念会でしたから、わたしも表題の言葉を説教題として、復活についてのお話をさせていただいたのです。
その説教は、概ねこんな内容でした。

「復活を信じるとは一体どういうことなのか。例えばパウロを考えてみよう。
律法を厳格に守るファリサイ派であったパウロにとって、律法違反の罪は死を持って報いるべきものであった。しかし実は、パウロ自身がその内心では、律法を守ろうとすればするほど律法を破ってしまう自分自身の罪の姿に気付かされていたのである。そして、そのようなパウロが、ダマスコ途上で復活のイエス・キリストと出会ったのである。そしてパウロは、その復活のキリストとの出会いによって、自分はキリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生かされている、と信じたのである。パウロにとって『復活を信じる』とは、罪と裁きからの解放を信じることであった。

またSさんの愛唱聖句によれば、マタイにとって復活を信じるとは、キリストの教えに生きることであった。キリストの教えに聞き従い生きる、そのことの中にこそ新しい命、復活の命が宿っている、そのようにマタイは復活の命を信じていたのである。

このように、『復活を信じる』とは、誰が見ても分かる客観的な復活の出来事があってそれを信じる、というようなことではなくて、一人一人異なるものなのである。
Sさんも復活を信じておられた。果たしてSさんの復活信仰とはどのようなものであったのだろうか。召天2周年にあたり、わたしたちもSさんの復活信仰に思いを馳せたい。」
このようなわたしの説教の後、Sさんと親交の深かったお二人の牧師が、このような思い出話をされました。

「Sさんは、転勤で行く先々で、そこにある教会に転会され、それらの教会で、時に教会役員、教会会計として、でしゃばることもなく、力を誇示したり批判したりもせず、地味に、誠実に、それらの教会に仕えておられました。そのSさんの誠実さ、純粋さ、素直さにこそ、復活の命があるようにわたしには思えるのです。」そして、続く牧師はこう言いました。「わたしが聞いたところでは、Sさんは戦後に経験したニヒリズムの中でキリスト教に出会い、そこに生きる希望を見出したそうです。そしてそのことが、Sさんの『わたしは復活を信じる』という言葉につながっているのでしょう。」

お二人の牧師の言葉を聴き、わたしも深く頷かされました。
「復活を信じる」とは、死後の命を信じることではありません。「復活」は、今の時を、神様と共に誠実に生きるための力と希望の源なのです。
わたしたちも、「復活を信じる」者でありましょう。

 

(甲子園教会牧師 佐藤成美)

 

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