日々の想い(34)「教会と幼稚園③~ありのままのこどもを~」

甲子園福音

2015年9月6日発行 100号

 

日々の想い(三四)「教会と幼稚園③~ありのままのこどもを~」

 

先日幼稚園で、夏の間に先生たちが参加した研修会の発表がありました。その発表の中のひとつが心に残っています。
それは、幼稚園教員だけではなくて、小学校の教員も参加した研修会についての発表でした。
参加した先生によれば、その研修会の冒頭に講師が、ある幼稚園の写真、前に立つ先生の周りにこどもたちが集まっており、その中の何人かは後ろのほうで寝そべったり、横を向いたりしている、そういう写真を見せたそうです。

そして、その写真についての感想を講師が求めたところ、「(寝転んでいるこども等について)こんなところでも居れるんだ。がんばってるね」という幼稚園の先生の感想に対して、小学校の先生は「どうしてこの子たちは前に来ないのか。先生はなぜ前に来させないのか」、そういう感想を述べたというのです。
そして講師は、そういう感想の違いを踏まえながら、幼稚園と小学校ではこどもの教育に対して、根本的な発想の違いがあると、話したそうです。
学校教育法によれば、幼稚園で行われるのは「教育」ということになっています。しかし、この幼稚園での「教育」とは、こどもたちの情緒を含む健康を育み、言葉によるコミュニケーションの基礎を築き、周囲の人間や環境との様々な関わりを持つように導き、内的な表現力を養う、というような「見えない教育」なのです。
つまりそれは、人間形成の基礎の部分を養い育てるものであって、小学校のように、一定の目標を目指して、こどもたちを一律に教え育む教育とは、その目指しているところが根本的に異なっているということです。

ですから幼稚園では、何かを一律に教えることではなくて、まずこどもたちを、それぞれの発達の違いを認めたうえで、受け留め、受け入れることに力を注ぐのです。
このように考えてきますと、そもそも幼稚園が、キリスト教の思想を土台としたフレーベルによって生み出されたこともよく理解出来るのです。

古代ギリシアのスパルタでは、健康そうな赤ちゃんは長老に抱かれ、その母も誇らしげにしているのに対して、ひ弱な赤ちゃんはライオンの待ち構える谷に投げ込まれそうになっている、そのような絵画が掲げられていたそうです。
そのかつてのスパルタのように、こどもの能力の優劣によって、これを選び、訓練し、育てることが、現代の日本社会においても行われていることがないでしょうか。そして、そこからこぼれ落ちるこどもが泣き叫んでいることはないでしょうか。

イエスは、こどもをあるがままにみました。そして、「神の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。そのようにしてイエスは、こどもたちの側のさまざまな条件や特性や能力に一切関わらず、神の愛がこどもたちに注がれていることを教えられたのです。

こどもたちをあるがままに受け留め、受け入れる、これがイエス・キリストにより、幼稚園に、そして教会(こどもの教会)に、託されている最も大切な業であることを、もう一度心に留めておきたいのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

 

九月の礼拝・集会予定
○九月二〇日(日)高齢者祝福礼拝 午前一〇時三〇分
○九月二〇日(日)クリスチャンセミナー  午後一時頃
奥田和弘先生の講演会記録から学びます。