聖書随想(20)「ヘブライ語聖書をめぐる問い①~教会の場合~」

甲子園福音

2016年6月5日発行 109号

 

聖書随想(二〇)「ヘブライ語聖書をめぐる問い①~教会の場合~」

 

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」
<ヨハネによる福音書五章三九節>

ヘブライ語聖書(旧約聖書)をどのように捉えるのか、これが長年にわたるキリスト教の大きな課題でした。なぜならば、これを正典とするユダヤ教とそこに記された律法を超克したところに成立したのがキリスト教である、と教会では考えられて来たからです。

では、もしそうであるとするならば、一体なぜキリスト教がヘブライ語聖書を持つ必要があるのでしょうか。新約聖書だけで充分なのではないでしょうか。
このように考えたのが二世紀に現れたマルキオンです。
マルキオンは、ヘブライ語聖書に記された神(創造神、律法神)は、怒り、嫉妬する不完全な神であり、イエスの示した慈しみの神とは異なると考えました。そして彼は、ルカ福音書とパウロの手紙を中心とした独自の正典を編纂しながら、ヘブライ語聖書は不要であると唱えたのです。
しかし、そのようなマルキオンの考えは、教会では異端として退けられ、ヘブライ語聖書はキリスト教の正典と認められ続けました。(マルキオンが異端とされたのは、イエス・キリストがまことの人であり、まことの神であることを否定する仮現論を唱えたためでもありました。)

では、教会の人々はどのようにしてユダヤ教の正典でもあるヘブライ語聖書をキリスト教の中に取り込んだのでしょうか。
そのひとつの例が、「聖書はわたしについて証しするもの」という、前述のイエスの言葉です。
これはイエス自身が語った言葉というよりは、イエスの口を借りて福音書記者ヨハネとその教会が語ったものと考えられますが、ここに語られている通り、ヨハネの教会の人々はヘブライ語聖書を、イエス・キリストを証しする書物として受け取ったのです。

では、ヘブライ語聖書がイエス・キリストを証しするとはどういうことでしょうか。例えばイザヤ書にこのような言葉があります。
「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」(イザヤ書五三章四-五節)

これは「苦難の僕」と呼ばれる一連の言葉ですが、教会はこれをイエス・キリストの出来事を預言する言葉として、受け入れたのです。
このように、ヨハネの教会を含む初代教会は、ヘブライ語聖書の言葉を様々に引用しながら、これをイエス・キリストにまつわる様々な出来事に当てはめました。(例えば、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言の言葉が、母マリアの懐妊とイエス出産に当てはめられました。)

そこには、文脈を無視した強引な引用もあり、ユダヤ教からは厳しい批判を受けたのですが、しかし、教会はそれにひるむことなく、かえってそのユダヤ教に対する反駁として、ヘブライ語聖書をイエス・キリストを預言するものと解釈し、キリスト教の正典の座に据え続けたのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)