聖書随想(21)「ヘブライ語聖書をめぐる問い③~イエスの場合~」

甲子園福音

2016年09月04日発行 112号

 

聖書随想(二一)「ヘブライ語聖書をめぐる問い③~イエスの場合~」

 

「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
〈マルコ福音書一章二二節〉

牧師は何の権威によって説教を語るのか、それは聖書の言葉の権威によってです。牧師自身の知識や経験によってではなく、聖書の言葉の権威を信じ、それを解き明かすことによってこそ、牧師は説教を語ることができるのです。
イエスの時代の律法学者たちもまた、それと同じでした。律法学者たちは「律法」(=ヘブライ語聖書の中心部分)の権威により頼んで、律法を解き証し、その日常生活への適応を人々に語ったのです。

しかし、イエスの語る教えは、そのようなものとは全く異なっていました。イエスは律法の権威によりかかるのではなく、自らが考え、信じていた、その信念に従って、その教えを語ったのです。
ですから、時にはそのイエスの教えは、律法に反するものとなりました。(例えば、安息日における労働の問題等)そしてそのためにイエスは、律法学者やユダヤ教の指導者たちから異端視され、律法違反者とされて、遂にはローマへの反逆者のレッテルを貼られて、ローマ人の手で死刑に処せされるのです。

ではイエスは、その「権威」ある教えによって、律法を否定しようとしたのでしょうか。ユダヤ教を超える新宗教(キリスト教)を打ち立てようとしたのでしょうか。
イエスが為さろうとしたことは、そのようなことではありませんでした。イエスはあくまでもひとりのユダヤ教徒に留まろうとしたのであって、新宗教(キリスト教)の開祖になろうとはしなかったのです。

ではイエスが為さったことは何だったのか。それは、その当時の形骸化したユダヤ教の内実を問うことでした。
律法遵守を説きながら、実は律法の根底に流れている神様の愛を見失っているユダヤ教の指導者たち、そしてそのために、「罪人」と呼ばれる人たちや病気の人たち、悪霊に憑りつかれた人たちなど、多くの人たちが、ユダヤ人の共同体から排除され、苦しみや悲しみを背負わされて生きていました。
イエスはそのような排斥された人たちに目を向けて神様の愛を語り、そのような人たちと共に生きようとされたのです。

そのようにしてイエスは、律法を否定するのではなくて、その当時見失われていた、律法そのものの精神である愛を取り戻そうとしたのです。
そしてそのことを、イエスは恐れず、ひるまず、神様の御旨に適ったことと信じて、教えました。それは、イエスと神様との間に、祈りによる絶え間のない交流があったからこそ、できたことだったのでしょう。だから人々は、そのイエスの語る言葉に、律法学者にはない「権威」を感じとったのです。
見失われていた神様の愛を取り戻そうとした、そのイエスの権威ある教えに、わたしたちももう一度目を向けてみたいのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

 

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