聖書随想(22)「ヘブライ語聖書をめぐる問い④~パウロの場合~」

甲子園福音

2016年10月2日発行 113号

 

聖書随想(二二)「ヘブライ語聖書をめぐる問い④~パウロの場合~」

 

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」
〈ローマの信徒への手紙七章七節〉

よく知られているように、パウロという人はかつてユダヤ教のファリサイ派の一員でした。エルサレムの律法学者ガマリエルのもとで律法を学んだ、と言われています。
「ファリサイ」という言葉はもともと「分離者」という意味で、律法に即した正しい生活をすることによって、律法に無知な人、関心のない人から自分自身を「分離」させようとした人たちのことでした。
ただし彼らはプロの宗教家ではなくて、その大半が職人、農夫、商人などの一般的な職業についている人たちでした。パウロ自身もテント職人だったのです。

ではファリサイ派として律法を守ることに熱心だったパウロが、一体どうして「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」などと書くようになったのでしょうか。律法によってパウロが知った「罪」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

律法によってパウロが知った「罪」、それは一言で言えば傲慢の罪でした。パウロはこのように語ります。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマ二・一)

パウロ自身が律法を熱心に守る中で気付いていったこと、それは、律法を守らない人や守れない人を見下し、裁いてしまっている自分がいる、という事実でした。
そのようにしてパウロは、律法を守ることに熱心になればなるほど、自分を誇り、他者を見下す傲慢な自分、神様からの誉れではなく、人からの誉れをむさぼり求める自分の「罪」を知らされていったのです。

だからパウロはまた、こうも書くのです。「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」(ローマ七・一二)

問題なのは律法ではなく、人間の内に宿る「罪」なのだ、だから、その内側に「罪」を宿している限り人間は、聖であり、善きものである律法を本当の意味で守ることはできない、つまり、律法によっては人は救われない、これがパウロの至った結論だったのです。

そんなパウロがダマスコ途上で出会ったのが、十字架と復活のイエス・キリストでした。そして、人は行いによってではなく、ただそのイエス・キリストを信じることによって義とされることを、エルサレム教会を通して知らされたパウロは、律法遵守を掲げるユダヤ教ファリサイ派としてではなく、キリスト教徒として歩み始めたのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

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