聖書随想(23)「ヘブライ語聖書をめぐる問い⑤~マタイの場合~」

甲子園福音

2016年11月6日発行 114号

 

聖書随想(二三)「ヘブライ語聖書をめぐる問い⑤~マタイの場合~」

 

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
(マタイによる福音書一章一九節)

聖書の中には四つの福音書がありますが、それぞれに描かれているイエス・キリスト像は異なっています。それは、各福音書の著者が、自分(或いは自分達の教会)にとってイエスとはどのような救い主であるのかを描こうとしているためです。

では、マタイによる福音書においては、イエス・キリストはどのような救い主として描かれているのでしょうか。
そのことは、マタイ福音書五章に出て来る山上の説教のイエスの言葉に示されています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

このようにマタイは、「律法の完成者」としてのイエス・キリスト像をその福音書で描こうとしているのです。では、イエスは一体どのようにして律法を完成させると、マタイは言うのでしょうか。

そのことを端的に表しているお話が、実は福音書冒頭にある降誕物語のヨセフへの夢のお告げのお話です。
ここで夫ヨセフは「正しい人」と言われています。イエスの時代、ユダヤの社会において「正しい人」とは、神の教えである律法を厳格に守っている人のことを指していました。そして、もしマタイが言う「正しい人」がそのような意味のものであるならば、ヨセフもまた「正しい人」として律法に従い、自分と関係を持たずにこどもを宿した許嫁のマリアを告発し、そのお腹のこども共々、石打の刑に処さなければならなかったはずなのです。

しかし、ヨセフはマリアとそのこどもを、律法に従って裁くことをしませんでした。それどころか彼は、この出来事が公にならないように、秘かにマリアを去らせようとしたのです。
そして、そのようなヨセフの「正しさ」によって、イエス・キリストはこの世に誕生することになるのです。

つまり愛に従って生きる正しさのことだったのです。
そして、そのような愛の「正しさ」をその生涯をかけて表し、本当の意味で律法を完成させた方こそが、マタイにとってのイエス・キリストだったのです。
ですから、マタイにとって律法は、単に否定されるべきものなのではなく、イエスがそうなさったように、愛によって完成されるべき、キリスト者の目標だったのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

 

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