聖書随想(24)「ヘブライ語聖書をめぐる問い⑥~マルコの場合~」

甲子園福音

2016年12月4日発行 115号

 

聖書随想(二四)「ヘブライ語聖書をめぐる問い⑥~マルコの場合~」

 

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
(マルコによる福音書三章四節)

これは、ある安息日に、手の萎えた人を癒したイエスが語られた言葉です。
ここに表れているように、マルコ福音書におけるイエスは、単に律法を破るというのではなくて、律法本来の精神である神の愛を踏まえながら、たとえその行為が形としては律法に抵触しても、人々を救うのです。

そのような場合、イエスが特に問題にしたのが、「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものでした。
「昔の人の言い伝え」とは、律法を毎日の生活に適応するために、律法学者によって作り上げられた教えのことです。当時、ユダヤ人たちは、その教えをまるで律法そのもののように守っていたのです。

しかしイエスは、そのような律法学者に向かって、このように言いました。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にし、よくも神の掟をないがしろにしたものである。…こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
律法の根底に流れている神の愛を大切にする、このようなイエスの姿が最もよく表れているのが、次の言葉です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』…『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

そしてマルコ福音書では、このようなイエスの愛の尊重の姿は、ユダヤ人にだけではなくて、異邦人にも及びます。
ギリシア人の女が、自分のこどもからの悪霊追放を願い出た時、イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われます。つまり、自分はイスラエルの民(=子供)のために遣わされた者であり、その救いを異邦人(=小犬)には与えない、というのです。
しかし、そのようなイエスの態度は、ギリシア人の女の謙虚で信頼に満ちた応答によって一変します。そしてイエスは、それまでご自分が認めていなかった異邦人の救いを実行されるのです。出会いがイエスを変えたのです。

マルコ福音書の描くイエス、それは、生身の人間としてのイエスです。その生身のイエスが、社会の周縁で苦しむ様々な人々と出会い、その中で相手に問われ、悩み、祈り、その結果として、型通りの律法遵守ではない、神の愛を示すイエスの救いがこの世に表れ出ていったのです。

そして、マルコの描くこのようなイエスの姿は、実在のイエスの姿にきわめて近いものだったように、わたしには思われるのです。
マルコ福音書を通して、様々な人々と出会い生きる、生身のイエスにもっともっと出会うことが出来ればと願います。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

 

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