日々の想い(43)「新年にあたって~聖書をめぐる雑感~」

甲子園福音

2017年1月8日発行 116号

 

日々の想い(四三)「新年にあたって~聖書をめぐる雑感~」

 

むこがわ幼稚園の園長として、はや一年九か月が過ぎました。年の初めにあたって、この間わたしが感じたこと、特に聖書の言葉にまつわる思いを紹介させていただきます。

幼稚園では毎朝、教職員が集まって朝の準備会が行われます。それは、讃美歌、聖書朗読、報告、司会者による祈祷の順に進んで行くのですが、最初わたしが迷ったのは、果たしてその聖書朗読の後に、わたしの解き明かし(超短い説教?)を入れるべきかどうかでした。
と言いますのも、それは毎朝のことですし、果たしてそんな短時間の間に十分なコメントが出来るかどうか、はなはだ心もとなかったからです。

しかし、神様のお支えと浅見先生の励ましのお陰で、なんとかこの間、お話を続けて来ることが出来ました。聖書箇所も、最初は聖書日課によっていましたが、途中からはルカ福音書を読み始めました。
幼稚園のクリスマス礼拝の二日間の朝には、ちょうどイエスの十字架の死と埋葬の箇所を読み、この世の闇と光を思うことが出来ましたし、また、二学期終園の日には、ちょうど福音書完読となりました。このような聖書箇所のめぐり合わせにも、神様の導きを感じている次第です。

わたしのお話も、最初の頃はメモに従い、ポイントとなる聖書の言葉を説明する程度だったのですが、次第にそれにも慣れて来て、最近はメモを見ずに、結構アドリブでしゃべることが多くなってきました。

そうやって毎朝、いわば「信仰」というものを持っていない教職員の先生たちにお話をしていて、わたしにも少しずつ分かって来たことがあります。
そのひとつ目は(当たり前のことですが)、聖書の言葉には、「キリスト教」という枠組みを超えた、真理が宿っている、ということです。つまり、聖書の言葉には、誰にでも通じる普遍性があるのです。
そして、聖書を通して、イエス・キリストにおける神様の出来事を語ることは、結局、人間について語ることなのだ、ということも分かってきました。
神を語るとは、人を語ることであり、神を見つめるとは、自分を見つめることなのです。
これまた当たり前のことなのですが、しかし、神と人、この両方が大事なのであって、どちらかだけに偏ってはいけないということを、改めて痛感させられています。

そして、最後にもう一つ分かったことは、だからやはり用いる言葉が問題なのであり、誰にでも通じる言葉でしゃべることが大切なのだ、ということです。
わたしの語る言葉がどれだけ幼稚園の先生たちに理解されているのか、少々心細い思いもしていますが、それでも出来るだけ、分かりやすい言葉で、神様を見つめ、人(自分)を見つめながら、この新しい年も、幼稚園で毎朝、神様の言葉を取り次ぐ業に励みたいと思います。
そして、教会においてもその実りを、説教や各集会において分かち合えればと願っています。
新しい年も、聖書の言葉を通して、神様と共に歩んで行きましょう。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)