日々の想い(42)「キリストの十字架に想う」

甲子園福音

2017年4月2日発行 119号

 

日々の想い(四二)「キリストの十字架に想う」

 

 一六世紀のフランドルの画家ヒエロニムス・ボッシュは、その卓越した人間描写によって、裁判の席でイエスをののしる人々や、十字架を担いで歩くイエスを嘲る人々の姿を描きました。
ボッシュの描く人々の顔、それは見るも恐ろしく、醜い、憎悪に満ちたものです。しかしそれはまた同時に、どんな人間でもその内に隠し持っているその本性、罪そのものを表わしているようにも思えるのです。

ボッシュはどこからこのような人間の姿をイメージしたのでしょうか。勿論それは、新約聖書の描くイエスの受難物語からです。
聖書が物語るイエスの最後の一週間は、言葉の上では、醜くどろどろしたものではありません。それは、詩編の言葉に基づいて形作られたものであり、典礼的に洗練されている、とさえいえる物語です。
しかし、その物語の奥に潜んでいる登場人物たちの思いを探って行くならば、わたしたちはまさにボッシュの描く世界に行き着くのです。
イエスはエルサレムの民衆に、歓呼の声をもって迎えられました。しかし、そのわずか数日後には、その同じ民衆が、「イエスを十字架につけろ」と叫んだのです。

ではなぜ彼らは、そのような心変わりを起こしたのでしょうか。それは、彼らがイエスに失望したからです。
エルサレムの民衆が待ち望んでいたもの、それは彼らユダヤ人を導いて、ローマ人を打ち倒す、かつてのダビデ王のような軍事的、政治的、宗教的なメシア(油注がれた王)でした。
しかし実際のイエスは、敵を打ち倒すどころか、その敵の手によってあっさり捕まってしまったのです。この出来事を目の当りにしたユダヤ人たちの失望と怒りは、どれほど大きなものだったでしょうか。
そしてそれはまた、イエスの弟子たちにおいても、同じことでした。ある者はそのメシアらしくないイエスの姿に失望し、またある者は保身に走り、イエスを見捨て、あるいは裏切りました。

こうやってイエスは、民衆からは見限られ、愛する弟子たちには裏切られ、見捨てられたのです。そして、イエスを敵視する人々からは、その陰謀によって公の場で無実の罪を着せられ、十字架につけられた後も罵られました。
そしてイエスは、社会的には犯罪人の一人とされ、信仰的には「神に呪われた者」とされ、肉体的には、皮膚が破れ、骨がくだけるばかりの鞭打ちを受け、茨の冠をかぶせられ、裸にされ、苦しみの中で死んでいったのです。
そのようにして、イエスを取り囲む全ての人々は、闇の力に飲み込まれて行きました。恐れと憎しみとたくらみと裏切り、その闇の力がイエスの命を飲み込んだのです。

しかし、そのような恐ろしい人間の闇の中で、ただイエスだけは、神を思い、神に向かい合いながら、沈黙の中で、すべてを受け入れ、死んでゆきました。
ここにイエスの愛があります。そしてこの愛において、神とイエスはひとつになったのです。
受難節のこの時、人間の闇を思いつつ、十字架のイエスに示された神の愛に、目を向ける者でありたいのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)