聖書随想(27)「たとえで語る意味」

甲子園福音

2017年5月7日発行 120号

 

聖書随想(二七)「たとえで語る意味」

 

「イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。』」
〈マルコによる福音書四章一一節〉

「たとえで語る」とは、一体どういうことでしょうか。それは、見えている事柄の意味を隠し、たとえを聞く者にその事柄の意味を問う、ということです。
イエスが為さったことは、すべての人に理解され、受け入れられた訳ではありませんでした。イエスに敵対した人々をはじめとして、イエスの母や兄弟たちですら、悪霊を追放したイエスの行為の意味が分からず、これを取り押さえに来たのです。

ではイエスの為さったことの意味を理解し、受け入れた人たちとはどんな人たちだったのでしょうか。それは、当時のユダヤ社会の中で、様々な形で抑圧され、差別されていた人たちです。
その当時のユダヤ人の間では、悪霊に憑りつかれた人だけではなく、病気もまた、悪い霊の働きによるものとされていました。つまり、病気にかかるということは、神様から遠く置かれるということであり、祭儀的に言うと「汚れる」ということだったのです。そして、障がいを持っているということも、同様に考えられていました。
その他にも、仕事の事情で律法による安息日遵守が出来ない羊飼いのような人たち、ユダヤ人ではないとうことで「汚れた者」と見做された異邦人たち、そしてその異邦人と接触する仕事をしていた徴税人たち、そのような人たちは、ユダヤ社会の支配者であるユダヤ教の祭司長一族やサドカイ派の貴族たち、律法を日常生活に厳格に適用しようとしたファリサイ派や律法学者たちの目には、神の救いからは遠い人々と映ったのです。

しかしイエスは違いました。イエスにとっては、そのような人々こそが神様によって顧みられ、愛されるべき人たちであったのです。だからイエスは、そのような人々のところにいって、憐れみ、癒し、慰め、励まし、共に過ごし、共に食事をしたのです。
このイエスの行為の意味、それが神様の御心を表わすものなのか、それともユダヤ社会の秩序を乱す悪霊の働きによるものなのか、その判断は、それを見る人々にゆだねられたのです。
だからイエスは、自分の為さっている業そのものを直接説明するのではなくて、「たとえ」を語られたのです。
あなたはわたしの為す業を見、わたしの語るたとえを聞いて、これをどのように考え、どのように受け取りますか。あなたはこれを受け入れ、わたしに従いますか。それともこれを批判し、わたしを拒絶しますか。

このように、たとえで語ることは、これを聞く者たちへのイエスの問いかけであり、チャレンジだったのです。
イエスが為された業の奥に潜むその意味、それを悟り、そこに宿るイエスの愛と人格に触れる、そのようなイエスとの出会いを持つことが出来れば、と願います。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)