日々の想い(46)「救いの確かさ(確証)について」①

甲子園福音

2017年9月3日発行 124号

 

日々の想い(四六)「救いの確かさ(確証)について」①

 

仏教における「悟り」が一体どういうものなのか、詳しいことは知りませんが、しかし辞書などを調べてみると、「真理を会得すること」というような意味が書いてあります。

キリスト教においては、そのような意味での「悟り」はありませんが、しかしそれに近いものとして「確証」(assurance)という言葉があります。「確証」とは、自分が神に救われていることの確かさの保証ということです。
キリスト教の歴史において「確証」が問題にされたのは、宗教改革第二世代に属するジャン・カルヴァンによって提唱された「二重予定説」を巡る議論においてです。カルヴァンによれば、人は生まれる前から「滅び」と「救い」のどちらか(そういう意味で「二重」)に定められているというのです。

なぜカルヴァンがこのような説を唱えたのかと言いますと、その当時、ヨーロッパ世界を宗教的に治めていたローマ・カトリック教会では、神様の救いに与るための条件として、人間の善い行いを認めていたからです。ローマ・カトリック教会が認める善行は、神の救いに与る条件足り得る、そうカトリック教会は教えたのです。

しかしそれに対してカルヴァンは、「救い」における神の恵みの絶対性(徹底した他力)を主張しました。人が救われるのは、その人が何か善い行いをしたからでもなく、神の教えに従って生きたからでもない、救いは全く無条件に、神の恵みによって与えられるものなのだ、それを言いたいがためにカルヴァンは、「人は生まれる前から」、つまり人が何かを為す前から、救いか滅びに定められていると語ったのです。

しかし、このカルヴァンの「二重予定説」は、その当時も後の時代にも、様々な議論を引き起こしました。例えば、もし人が生まれる前から「救い」と「滅び」に定められているというのならば、洗礼を受けてキリスト教徒になることと神の救いは一切関係のないものとなります。
また、「救い」と「滅び」が定められているとするならば、善い行いをした者でも滅びてしまうということになり、そうすると、倫理的な行いの意味が軽んじられることになります。

そのような様々な議論の中で、カルヴァン派の中のある人たちが求めたのが、救いの「確証」でした。自分が、救いに選ばれているのかどうか、どうすれば分かるのか。その確証が欲しいとある人たちは考えたのです。

しかし、この「確証」に対するカルヴァンの答えは、いたって明快なものでした。カルヴァンは教父アウグスティヌスの言葉を引用して、こう言いました。「神の恵みは選ばれるべきものを見つけだすのではなく、これを造り出すのである」と。

つまり、救いに選ばれている者は、自ずとそれに相応しい歩みをする者になる、そしてそのために神はその人に、聖書の言葉と聖霊によって、神による「召し」と、神による義(=神による赦し)を与えられる、それこそが、救いへの選びの確証なのだ、というのです。
カルヴァンがこれを語った時代のヨーロッパでは、ほとんど全ての人が幼児洗礼を受けたキリスト教徒でした。しかしその中にあって、彼が求めたことは内的なことでした。本当に神に救われるのは、外的な形としての洗礼を受けた者ではなくて、心の内に神の召しと神の義を自覚し、それに相応しい歩みをした者だけなのだ、カルヴァンはそう言ったのです。

「選び」の教理の是非はともかくとして、神の救いが与えられていることの自覚と、その無条件の神の恵みに対する責任感が果たして自分の内にあるのかどうか、そのことを、カルヴァンの言葉を読みながら、改めて考えさせられた次第です。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)