日々の想い(48)「救いの確かさ(確証)について」③

甲子園福音

2017年11月5日発行 126号

 

日々の想い(四八)「救いの確かさ(確証)について」③

 

自分が救われたいがために神を信じ、それ故に救いの確証を求めることは、結局、神を自分のために用いる「偶像礼拝」につながる、そのことは、先月の甲子園福音において書かせていただいた通りです。
とは言いながら、ではわたしたちが信仰生活において確信すべきことはないのでしょうか。
このことについて、あるクリスチャンの方から大変貴重な言葉をいただきましたので、それをご紹介させていただきます。
その方は、信仰者が確信すべきことを、この世と彼岸に向けてのこととしてとらえて、概ね次のように言われます。

「混沌とした苦難の多い現世を生きるにあたり持つべき確信」とは、「肉に従って罪と悪魔の奴隷のような生き方をすることは滅亡であり死である」こと、「それに対して、苦難に耐え忍耐して神様、イエス・キリストに従って生きることによって愛と希望に満ちた真の命を生き抜くことが出来る」こと。また、彼岸の世界については、前述の確信に基づいて、「それは未知の世界ではなく、イエス・キリストが『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』(ヨハネ十一・二五、二六)と述べられている世界だと確信」して生きるべきである、ということ。

この方がここで語っている「確信」は、自分が救われるかどうかの「確証」というようなものでは一切ありません。そうではなくて、この方が確信すべきだと述べておられるのは、すべてイエス・キリストとその業、その言葉に関わることです。
イエス・キリストが為された業、語られた言葉、そしてイエス・キリストという方そのものにこそ、この世と来るべき世においてわたしたちを活かす神の愛と真理があること、そしてそこにこそわたしたちがたどるべき道があること、それをわたしたちは確信すべきなのです。

コリントの信徒の手紙二の中で、パウロはこのように語りました。「(アジア州において)わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」
死を前にして頼りになるのは「わたし」ではない、復活のイエス・キリストに現れた神である、これが死を前にしたパウロの得た確信でした。つまりそれは、自分自身を信頼するのではなく、神とその力を信頼するべきである、ということです。

そしてそのことは、「信じる力」ということにおいても、またそうなのです。わたしたちの「信じる力」には限界があります。ですからわたしたちには、精一杯信じようと思っても、信じきれない時があるのです。そして信じきれないが故にわたしたちは、時に神につまずき、神をののしり、神を呪う、ということまでしてしまうのです。

しかし問題は、そのようなわたしたちの「信じる力」ではありません。たとえわたしたちが信じきれなかったとしても、それでもわたしたちに対する神の救いはゆるがないのです。イエス・キリスト御自身に、そしてその業と言葉に宿る愛と真理はゆらぐことなく、わたしたちを照らし、支えているのです。

愛や真理などというものが、微塵も見えないようなこの世に生きているからこそ、イエス・キリストに現れた神の愛と真理を確信して歩むわたしたちでありたいのです。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)