聖書随想(29)「地獄考」

甲子園福音

2018年2月4日発行 129号

 

聖書随想(二九)「地獄考」

「死の国に行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」〈詩編六篇六節〉

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
〈マタイによる福音書一〇章二八節〉

こどもの頃、よく母親から地獄の話を聞かされました。曰く、「紙を無駄遣いしたら、地獄で紙の橋を渡らされる。」、「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれる」等々。
これらの言葉はいずれも、無駄使いをするな、嘘をつくな、という道徳的な教訓を含んだものです。
今、地獄を描いた絵本が売れているそうです。現代の親たちが一体どういう思いでこの絵本をこどもたちに読み聞かせているのか、聞いてみたいところです。

さて、聖書の中にも死後の世界に関連する言葉が出てきますが、そのうちのひとつが「陰府」(よみ)です。
古代イスラエル人によれば、地の果てには「陰府」と呼ばれる大きな深い穴が開いており、人は死んだらこの穴の中に堕ちて行く、というのです。そして「陰府」に落ちた死者は、神や人とのあらゆる交わりを失い、ただ永遠に沈黙して、その穴の底に立ち尽くす、そう信じられていたのです。

しかし、紀元前六世紀にイスラエル人の末裔であるユダヤ人の国が滅び、バビロニア捕囚を経ることによって、このような死後の世界理解に変化が生じて来ます。
異国バビロニアの地で捕囚民とされたユダヤ人たちは、その地にあったゾロアスター教等の影響を受け、光と闇、善と悪の闘い、という二元論を知ることになります。
そしてそのことからユダヤ人の中に、この世の終わりにおける神の裁きという思想(終末思想)が入り込んで来ます。つまり、この世の終わりに神は、悪い者を滅ぼされ、正しい者、神を信じる者を救われる、というのです。

このような終末思想は、ユダヤ教からキリスト教にも受け継がれました。そして、神の裁きを受けて、人が滅ぼされる場所とされたのが「地獄」と訳されている「ゲヘナ」だったのです。
「ゲヘナ」とは、「ヒンノムの谷」というヘブル語のギリシア語訳で、それはエルサレムの南方に実際にあった深い谷のことでした。

この谷ではかつて、異教の神々に献げるためにこどもが焼き殺されたそうです。そのために、焼き尽くす火の場所=神の裁きの場所との連想が膨らんだものと思われます。そしてそこから更に発展して、神による最後の審判はこの谷で行われる、とも信じられていたようです。
こうして地名であった「ゲヘナ」は、「地獄」を表す代名詞となっていったのです。

このように、聖書における死後の世界観は、必ずしも一貫したものではありませんが、しかしそれにも関わらず、古代の人々が死後の世界について懸命に考えてきた、その思想的努力はその変遷からも伺い知ることができます。
そしてそれに比べるならば、現代を生きるわたしたちの死後の世界観のなんと乏しいことでしょうか。

勿論わたしたちには、古代人のように「陰府」や「地獄」を、そのまま信じることは出来ません。しかしそれにも関わらず、これら古代人の死後の世界観はわたしたちに大切なことを伝えています。つまりそれは、人間には歩んだその人生を問われる時が必ず来る、ということです。わたしたちはいつか必ず命の創り手(=神)の前に立ち、人生の答え合わせをするのです。

そして、だからこそわたしたちは、その神の前において「わたし」を支える助け手、執り成し手(=救い主)を必要としている、ということなのではないでしょうか。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)