日々の想い(50)「霊性の養いについて」

甲子園福音

2018年3月4日発行 130号

 

日々の想い(五〇)「霊性の養いについて」

ギリシア思想や仏教においては、人間の本質は魂であって、肉体ではありません。従って魂は、仮の宿である現在の体を出ると、別の体へと生まれ変わります。

これに対して、聖書的・ヘブライ的人間理解においては、
魂(プシュケー)と体(ソーマ)はふたつ併せてひとりの人間を形成しているのであって、どちらか一方だけでは存在しえません。

しかしとは言いながら、ヘブライ的な理解では魂、体と共に、もうひとつ人間を成り立たせているものがあります。それが「霊」(プネウマ)です。創世記によれば、神が命の息を吹き込むことによって、はじめて人は人となったのです。
従って、人間における霊とは、単に魂に付属する部分的なものではなく、人間の存在そのものに関わっているものなのです。神に創られたものとして、人が人としてあること、それを成り立たせているのが霊なのです。

では、「人が人としてあること」に関わる問題とは何でしょうか。これを神学者のP・ティリッヒは、「人間実存の本質からの疎外」という言葉で語りました。「人間実存の本質からの疎外」とは何かと言いますと、わたしたち人間の現実の姿(実存)は、神に創られたその本質的な人間の姿から外れてしまっている(疎外されてしまっている)ということです。キリスト教では、これを「罪」という言葉で言い表したりもします。

ではわたしたち人間は一体どのようにして、その本質的な人間の姿から外れてしまうのでしょうか。このことをティリッヒは、三つの側面から語ります。

一つ目は人間の人格に関わることです。人間はそれぞれに固有の人格を持っています。しかし人はひとりで生きることは出来ず、他者と共に生きなければなりません。自分の個性を生かすことと同時に他者との協調性が必要です。ここに個と集団という両極で揺れ動く人間の姿があります。

二つ目は、人間の持っている力に関わることです。人間はそれぞれに固有の力を有しています。しかし、この力を野放図にぶちまけるだけでは、人の力は生かされません。その力はどんな分野においても、一定の形式(ルール)を伴わなければなりません。形を無視して力を表わすことはただの無秩序に陥りますし、形式にとらわれ過ぎると活力が失われます。ここに力と形式という両極で揺れ動く人間の姿があります。

三つ目は、人間の自由に関わることです。人間はそれぞれに自由を持っていますが、しかしまた同時に、生まれながらに定められたもの(運命)も持っています。(例えば、生まれて来る時代、国、親、家族、身体的な特徴等を、人は選ぶことはできません)従ってその「定め」を無視した自由はなく、自由は、その「定め」の中においてこそ発揮されるべきものなのです。ここに自由と定めの中で揺れ動く人間の姿があります。

このように人間は、この三つの側面において揺れ動きながら、どちらかの極に偏り、そのあるべき本来の姿から外れてしまうのです。
そして、そのような本質から外れたわたしたちに、人としてのあるべき姿、両極における葛藤を克服した姿を示してくれるのが、イエス・キリストなのです。
あるべき姿になろうとしてなれない、そんなわたしたちに人本来の姿を示し、その姿へと招いてくださる、これがキリストによる「罪からの贖い」であり、このキリストの呼びかけを聞くことこそが「霊性を養われる」ということなのです。

「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ四章九節)

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)