聖書随想(30)「知識は罪ですか?」

甲子園福音

2018年4月1日発行 131号 その1

 

聖書随想(三〇)「知識は罪ですか?」

「主なる神は言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
〈創世記一章一六―一七節〉

 アダムとエバが住んだ楽園「エデンの園」には、善悪の知識の木が生えていました。しかし神様は、その木の実だけは決して食べてはいけない、と二人に命じられたのです。
ところが、結局二人はその実を食べてしまい、楽園から追放されてしまうのです。
この二人が犯した罪、それをキリスト教会は「原罪」と呼びました。そしてそれにより、人間は罪に堕ちたと考えたのです。
しかし、そもそもなぜ神様は人間に善悪の知識の実を食べてはならない、と命じられたのでしょうか。人間にとっては、善悪を知ることから始まる「知識」というものはとても大切なもののはずです。なぜ人間が知識を得ることが「罪」であり、それが「死」に至るのでしょうか。
世界ではじめて幼稚園をはじめたフレーベルは、こどもは神様に近いと考えていました。それはなぜかと言いますと、こども、特に乳幼児は「ふたつの世界」ではなく、「ひとつの世界」に生きているからです。

 赤ちゃんにとって、母親は自分と別の存在ではありません。母子は一体です。そしてこの「ひとつの世界」において、赤ちゃんはすべてのことを受容します。母親をはじめとして、周りの人たちが赤ちゃんに与えるすべての愛を無条件に受容するのです。
この「ひとつの世界」に生き、すべてを受容する赤ちゃんの姿は、人間本来の姿、つまり、神と自分がひとつであった原初の人間(エデンの園の人間)の姿を表しています。
そのようにして人は本来、まるで赤ちゃんのように、与えられる神様の愛を無条件に受け取ることが出来るものなのです。
しかし残念なことに、いつまでも「ひとつの世界」に留まることは、人には許されていないのです。なぜなら、人は「ひとつの世界」から「ふたつの世界」に移ること、つまり、自他の区別を知ることを通して成長し、自律するからです。

 そうやって人は、幼稚園での保育や学校教育を通して、自分と他者、自分と世界の関わりを学び、自他の区別をしっかりつけて行くこと(客観的に世界を見ること)を教えられて行くのです。
ところがまた、客観的な知識が増し、自己と他者・世界の区別がはっきりしてくればくるほど、そこに新たな人間の問題が生じてきます。それが自己対他者・世界という問題です。
たとえば「自分とはどんな人間か」という問いに対して、自分では自分を優しい人間だと思っていたとしても(主観的評価)、他者・世界は自分のことを「あなたは冷酷な厳しい人ですね」と言うかもしれません(客観的評価)。

 このようにしてわたしたち人間は、他者や世界を知れば知るほどに、自他の関わりが生むその緊張関係の中で分裂し、本来あるべき自分の姿を見失うのです。そうやってわたしたちは知識の故に、他者・世界に押しつぶされそうになったり、自分で自分に絶望してしまう、という「死に至る病」に苦しむ者となるのです。
これが、聖書の語る「知識は罪であり、死に至る」ということの意味です。
そしてだからこそ、「知識」がもたらす「死」に対して、聖書は愛を語るのです。「あなたの本当の姿、それは神様に愛されている姿です、あなたは神様に知られています、そして愛されています」と。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)