日々の想い(51)「バイバイ、おじちゃん」

甲子園福音

2018年5月6日 132号 その1

 

日々の想い(51)「バイバイ、おじちゃん」

 

四月もあっという間に終わり、早くもゴールデンウィークとなりました。
この時期のわたしの苦労(?)、それは四月に入園した新入園児の名前を覚えることです。
四月一二日の入園式から二週間と少し。ようやく新しいこどもたちの顔と名前を憶えかけたと思ったら、また連休となり一からやり直し、ということになります。しかしそれでもこれまでの経験上、夏休み前にはなんとか皆の名前を覚えられるのだろうとも思っているのですが。

そんな中で、四月のある日の降園時、玄関でお見送りをしているわたしに向かって、年少の女の子が「ばいばい、おじちゃん」と言ったのです。
一緒にいたお母さんは「どうもすみません」と恐縮しきりでしたが、わたしはそのあまりの可愛さに大笑いして、「そうやなあ、ほんまにおじちゃんやなあ」と答えました。
そうなのです。わたしは自分が園長のつもりで、朝のお迎えの時も、そしてお見送りの時も玄関に立っているのだけれども、わたしを初めてみるこどもたちにとっては、わたしは一人の「おじちゃん」に過ぎません。いわばわたしは「おじちゃん」という範疇のワン・オブ・ゼムに過ぎないわけです。
しかしそれが、一学期、二学期となり、年少さんのクラスでの聖書のお話が始まり、こどもたちもわたしの顔を認識するようになってくると、これがだんだんと「どこかのおじちゃん」から「園長先生」になってくるのです。

そして更に年長さんになってくると、「園長先生の名前は、佐藤成美やろ」と、名前まで覚えてくれるようになるわけです。
そういう新入園児たちとわたしの、これから始まる楽しい、うれしい関係のことを思い巡らしながら、ふっと、「神様とわたしたちの関係もそれと同じやなあ」と思わされました。
わたしたちにとって「神様」などというものは、特に日本のような多神教の国においては、まさにワン・オブ・ゼムのようなものです。たくさんいるうちの「一人」としての「神」に過ぎません。

ところが、聖書が語る神様は、わたしたちの「羊飼い」としての神様ですから、わたしたち一人ひとりの名前をちゃんと覚えていてくださり、わたしたちを名前で呼んでくださっているのです。
でも残念ながら、わたしたちにはそのことがなかなか分からないのです。園児たちのように、一学期、二学期で分かる、というふうにはなりません。
神様によって毎週礼拝に招かれ、聖書を通して呼びかけてくださるその言葉を何度も繰り返し耳にして、祈りにおいて神様と向き合う中で、何か月も、何年もかかって、ようやく「あっ、そうか。神様はずっとわたしの名前を呼んでくださっていたんだな」ということが分かるのです。(勿論、中にはこどものような素直な方もいるとは思いますが、わたし自身はそれがなかなか分かりませんでした。)

そしてその神様の呼びかけに気づいた時に、はじめてわたしたちも神様に向かって、「あなたこそわたしの神様です」と神様に言葉を返すこと(=信仰を告白すること)が出来るのです。
どんな時でもわたしたちの名を呼んでいてくださる神様に、いつもちゃんと挨拶を返せるわたしたちでありたいと思います。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

 

福音のメッセージ「スタンド・バイ・ミー」(四月八日小野教会礼拝説教より)

 

わたしの大好きな映画『スターウォーズ』には、様々なテーマが描かれます。そのうちのひとつが「恐れ」です。
主人公の一人は、いわゆるヒーローなのですが、遠い故郷の星に遺してきた母親への不安が「恐れ」となり、やがてそれが「憎しみ」と「怒り」に変わって行くのです。そして遂に彼は、闇の力に取り込まれ、悪の支配者に従う者となってしまうのです。

これは、不安は恐れに、恐れは憎しみに、憎しみは怒りに変わって行く、そのような人間の心理を見事に描いているお話だと、わたしは思っています。
旧約聖書の民数記にも、これと同じような話が出てきます。
モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地とされたカナン地方に入って行こうとします。そしてそのために偵察に出された人たちは、二つの異なった報告をイスラエルの人々に告げるのです。

ある人たちはこう言います、「断然その土地に登って行って、そこを攻めとりましょう」と。しかしまた別の人たちは、「いや、そこに住む民はわたしたちより強い」と言い、それだけではなく、「その土地に住む者は、巨人の子孫であって、彼らから見れば自分達はいなごのように小さく見える」と悪い噂を流すのです。
そして結局、イスラエルの民はこの悪い噂を信じ、心の内に「恐れ」を抱きます。そしてその「恐れ」が、「なぜ自分達をこのような恐ろしい場所へ連れて来たのか」という、指導者モーセへの「憎しみ」へと変わって行くのです。

このような、「恐れ」に捕らわれた人間の姿を表している、もうひとつの聖書のお話、それがイエスの弟子たちのお話です。
イエスが捕らえられ十字架で処刑された後、イエスの弟子たちは、イエスを捕らえたユダヤ人たちを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。
もしそのままであったなら、この弟子たちの「恐れ」は、イエスを捕らえた者への「憎しみ」か、自分達を裏切ったユダへの「憎しみ」か、或いは、師であるイエスを見捨てた自分自身への「憎しみ」へと変わっていたことでしょう。弟子たちは、絶望と虚無に陥る一歩手前にいたのです。

そのような弟子たちの前に、復活のイエスが現れました。そしてイエスは、「あなたがたに平和があるように」と告げ、更に弟子の一人であるトマスに向かって、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。
「見ないのに信じる」とはつまり、自分が見て信じることではなくて、自分が見られていることを信じる、ということです。
「恐れ」の中にある弟子たちを、それでもイエスはいつも側にいて見ておられた、「だから大丈夫、心に平安を持ちなさい」これが復活のイエスの弟子たちへのメッセージだったのです。

たとえわたしたちがこの目でイエスを見ていない時でさえ、復活のイエス・キリストは、いつもわたしたちの側におり、わたしたちのことを見て、知って、愛していてくださるのです。
このことを信じ受け入れて、「恐れ」の中でも心に「平安」をいただくわたしたちでありましょう。