「スタンド・バイ・ミー」(4月8日小野教会礼拝説教より)

甲子園福音

2018年5月6日 132号 その2

 

福音のメッセージ「スタンド・バイ・ミー」(4月8日小野教会礼拝説教より)

 

わたしの大好きな映画『スターウォーズ』には、様々なテーマが描かれます。そのうちのひとつが「恐れ」です。
主人公の一人は、いわゆるヒーローなのですが、遠い故郷の星に遺してきた母親への不安が「恐れ」となり、やがてそれが「憎しみ」と「怒り」に変わって行くのです。そして遂に彼は、闇の力に取り込まれ、悪の支配者に従う者となってしまうのです。

これは、不安は恐れに、恐れは憎しみに、憎しみは怒りに変わって行く、そのような人間の心理を見事に描いているお話だと、わたしは思っています。
旧約聖書の民数記にも、これと同じような話が出てきます。
モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地とされたカナン地方に入って行こうとします。そしてそのために偵察に出された人たちは、二つの異なった報告をイスラエルの人々に告げるのです。

ある人たちはこう言います、「断然その土地に登って行って、そこを攻めとりましょう」と。しかしまた別の人たちは、「いや、そこに住む民はわたしたちより強い」と言い、それだけではなく、「その土地に住む者は、巨人の子孫であって、彼らから見れば自分達はいなごのように小さく見える」と悪い噂を流すのです。
そして結局、イスラエルの民はこの悪い噂を信じ、心の内に「恐れ」を抱きます。そしてその「恐れ」が、「なぜ自分達をこのような恐ろしい場所へ連れて来たのか」という、指導者モーセへの「憎しみ」へと変わって行くのです。

このような、「恐れ」に捕らわれた人間の姿を表している、もうひとつの聖書のお話、それがイエスの弟子たちのお話です。
イエスが捕らえられ十字架で処刑された後、イエスの弟子たちは、イエスを捕らえたユダヤ人たちを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたのです。
もしそのままであったなら、この弟子たちの「恐れ」は、イエスを捕らえた者への「憎しみ」か、自分達を裏切ったユダへの「憎しみ」か、或いは、師であるイエスを見捨てた自分自身への「憎しみ」へと変わっていたことでしょう。弟子たちは、絶望と虚無に陥る一歩手前にいたのです。

そのような弟子たちの前に、復活のイエスが現れました。そしてイエスは、「あなたがたに平和があるように」と告げ、更に弟子の一人であるトマスに向かって、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです。
「見ないのに信じる」とはつまり、自分が見て信じることではなくて、自分が見られていることを信じる、ということです。
「恐れ」の中にある弟子たちを、それでもイエスはいつも側にいて見ておられた、「だから大丈夫、心に平安を持ちなさい」これが復活のイエスの弟子たちへのメッセージだったのです。

たとえわたしたちがこの目でイエスを見ていない時でさえ、復活のイエス・キリストは、いつもわたしたちの側におり、わたしたちのことを見て、知って、愛していてくださるのです。
このことを信じ受け入れて、「恐れ」の中でも心に「平安」をいただくわたしたちでありましょう。