「ほら、あおむしがきれいなちょうに」牧師 佐藤成美

甲子園福音

2018年6月3日発行 133号 その2

 

福音のメッセージ「ほら、あおむしがきれいなちょうに」牧師 佐藤成美

(5月6日 甲子園教会礼拝説教より)

『死ぬ瞬間』を著したスイスの精神科医エリザベス・キュープラー=ロスは、死は恐ろしいものではなく、あおむしがさなぎからちょうになるようなものだ、と書いています。
わたしたちの存在は、あおむしがさなぎからちょうになるように、死んだ後に新しく生まれ変わるのだ、というのです。

そしてキリスト教においても、人はこの体とは別の新しい体、復活の体を身にまとう、ということが言われています。
ところがキリスト教の面白いところは、そういう「復活の体」を身にまとうという出来事は、死んでから始まるのではない、と言っているその点なのです。
ですからキリスト教では、天国(=神の国)もまた、死んでから行く場所ではなくて、イエス・キリストの救いによって、今既にこの地上において、わたしたちが「復活の体」を身にまとい、生き始めるものなのです。
そのことに関して、使徒パウロはこのように書いています。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
この「うめき」とか、「産みの苦しみ」とは、新しい自分が生まれ出ること、つまり今ここで「復活の体」を身にまとい、天国を生き始めることに関わる「うめき」であり「苦しみ」のことです。
ではなぜわたしたちは、「新しい自分が生まれる」ことにうめき、苦しむのでしょうか。

それはわたしたちが「なろうとしてなれない」自分を知っているからです。
良い人になろうとしてもなれない自分、愛情深い自分になろうとしてもなれない自分、目指すべき自分の姿になれない自分、そしてその反対に、やってはいけないことばかりしてしまう自分。

だから、わたしたちはうめき、苦しむのです。
いくら神様から、「あなたはイエス・キリストの救いによって、そのままの姿で、すでに『復活の体』を身にまとっている神の子なのだよ、あなたはわたしと共に天国を生きているのだよ」と言われても、素直にそれを受け入れることが出来ないのです。
しかし、そのようなわたしたちを神様に執り成す方がいる、とパウロは言います。パウロはこう書いています。「同様に、霊もわたしたちを助けてくださいます。

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
なろうとしてなれない自分を思い、罪の意識にうめき苦しむわたしたちに対して、ただ神の霊だけは、そのわたしたちの苦しみを理解して、これを神様に執り成してくださるのです。
こんなわたしたちがイエス・キリストの救いによって、すでに「復活の体」を身にまとい、神様と共に天国を生き始めている、そのことを信じることが出来るように、聖霊の執り成しを祈り求めましょう。