日々の想い(55)「熊の爪のお守り」

この二年続けて、夏休みに北海道旅行に行って来ました。きっかけは妻の「北海道に行きたい」の一言だったように思います。
しかし、北海道のガイドブックを見るうちに、ある大切なことを思い出したのです。それは、わたしの曽祖父が北海道の「開拓者」の一人であったということです。

わたしの曽祖父である黒沢成教は、奥州白石(現宮城県白石市)に生まれました。黒沢家は当時、仙台伊達支藩白石藩の右筆の家だったそうです。
この白石藩は戊辰戦争のおり、会津を攻め落とそうとする薩長軍に対して、他の奥羽諸藩と「奥羽越列藩同盟」を結成し抗戦、曽祖父成教も一三歳にして出陣したそうです。しかし奮戦空しく敗戦、領地は没収となりました。

財政難に陥った藩をかかえて領主片倉邦憲は、当時明治政府が進めていた「旧藩士による蝦夷地『開発』」の話を聞きつけました。そして帰農するか、移住して藩を再興するかの話合いの後、全藩をあげての移住が決定されたのです。片倉家の「支配地」は、胆振国幌別群(現登別市周辺)とされました。

白石藩の北海道への移住は三回に亘って行われました。曽祖父が渡航したのは、その第三回目と思われます。この渡航に際しては、旧幕軍の咸臨丸が使われたそうですが、座礁して沈没。乗船者は着の身着のままで救助され、後続の船に乗り込み、移住者六〇四名が小樽に到着したのです。しかし結局、入植予定地の登別には至らず、開拓官に相談の結果、最月寒村(現札幌市白石区)への入植が認められました。

石狩平野の一隅、最月寒村は当時原生林であり、移住者は簡素な掘っ立て小屋を作り、開墾作業を続けました。熊の出没は日常茶飯事であったようです。

しかし、やがてそこは旧藩士の屋敷が立ち並ぶ「白石村」となりました。また、黒澤家の次男であった曽祖父成教は、家老佐藤孝郷の養子となり、北海道開拓使庁に務め、後に東京の工部大学(後の東京帝大工科大学)を卒業、工学士となり、各地に建造物を残したのです。

このような北海道へと移住した曽祖父に関わる資料を読み進めているうちに、これまたふと思い出したのが、こどもの頃、家の箪笥の引き出しにあった熊の爪のことです。

それは6~7センチはある毛と肉片のついた立派な爪で、さぞかし大きな熊のものなのだろうと、こども心に思っておりました。また、父の話では、それはお守りだ、ということでした。しかし、なぜうちの家にその熊の爪のお守りがあるのか、それが不思議でならなかったのです。しかし、そのような曾祖父のたどった北海道移住の足跡を知るにつけ、その熊の爪のお守りの由来が、なんとなく分かってきたような気がしました。

極寒の札幌で原生林を開拓しようとした白石藩の人々、その作業と生活は想像を絶する厳しさであったと思われます。しかし、そういう彼ら・彼女らが生きることを助け、支えたのが、アイヌの人々だったのです。だからこそ、アイヌにとってのお守りである熊の爪が、わたしの家にも「お守り」として残されていたのでしょう。

わたしの曾祖父が受けたであろうそのアイヌの人々からの恩情を思うと胸が熱くなる思いがする一方、「開発」、「開拓」と称して、その大地を奪い、アイヌを社会の周辺へ押しやっていったわたしの曾祖父を初めとする「和人」の傲慢さを思わずにはいられません。

アイヌの人々にとって、自然をはじめとするすべてのものは神々(カムイ)からの贈り物です。これは、聖書に描かれる人々が持っている理解と軌を一にするものです。分かち合う心が、そこには生きているのです。

神様から贈られた人間の生と、その出会いの不思議を思い、その導きを神様とアイヌの人々に感謝した次第です。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)