福音のメッセージ「神は拳をどう降ろす?」

聖書箇所:出エジプト32:7~14、マルコ14:43~52、ヘブライ6:4~12

 ルネサンスの時代の人々の間には、死の間際に洗礼を受ける人が結構いたそうです。

それは一体なぜかと言いますと、それは当時の人々が洗礼後に犯した罪の裁きを恐れたからなのです。人間は洗礼を受けてからでも罪を犯す、そうすると、その罪が積もり積もって最後の審判において裁かれることになる。だからそうならないように、人生の最後に洗礼を受けることで、それまで犯した罪をきれいさっぱり洗い流してもらって死んでゆけば、もう最後の審判を恐れる必要はない、そのようにルネサンス時代の人たちは考えたのです。

このような考え方に、どこまで直接的に影響を与えたかは分かりませんが、例えば今日のヘブライ人への手紙の言葉などは、その考えを助長するような言葉のひとつであるように思えるのです。

今日のヘブライ人への手紙にはこのように書かれています。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」

このヘブライ人への手紙は、迫害下にあるクリスチャンに対して、信仰に踏みとどまるように勧めたものです。ですから、その点は差し引いて考えないといけないとしても、しかしここにははっきりと、一度信仰を持ちながら堕落し、それを捨てた者には再び救いはない、と書かれています。そして、これを拡大解釈した時に、一度信仰を持ちながら「堕落」したら、つまり罪を犯したら、もう救われないのだ、という考え方が生まれてしまうのです。

しかし、本当にこういう考え方は正しいのでしょうか。洗礼を受けてから堕落したら、信仰を捨て、罪を犯したら、もう救いはないのでしょうか。神はその怒りの拳を振り下すのでしょうか。

今日のマルコ福音書は、イエスが逮捕されるお話です。

イエスはその逮捕の場面において、自分を裏切るイスカリオテのユダ、或いは自分を見捨てて逃げるペトロを始めとする弟子たちに対して、怒りの言葉、呪いの言葉を一切吐いていません。それどころかイエスは、その事態を「聖書の言葉の実現」、つまり神様の御心と信じ、ただ黙ってこれを受け入れ、受け止めているのです。

このイエスの「沈黙」にこそ「赦し」があります。イエスは弟子たちを始めとする人々の罪を沈黙の中で受け止め、これを赦しているのです。そしてそういうイエスの在り方を、神様もまた「善し」とされました。それが、イエスの復活という出来事です。

キリスト教とは、イエス・キリストを通して神様を見るという宗教です。つまりそれは、イエス御自身が神様だと信じることではなくて、このイエスの態度、言葉、人格を通して神様が現れていることを信じる、ということです。
そして、その逮捕から十字架の死に至る場面に描かれているイエスの態度、言葉、人格を通して現れている神様は、「一度救いの恵みを味わいながら、堕落した者を、再び悔い改めに立ち帰らせることは出来ない」とは、決して語らないのです。

なぜならばこのイエス・キリストは、神様の至福を共に味わいながらも、自分を裏切り見捨てた、いわば自分を十字架に架けた、その弟子たちをも受け止め、これを赦される方だからです。

そうやって、イエスを通して現れた神様がわたしたち人間に語るのは、赦して赦して赦しぬく徹底した愛です。わたしがどんな者であるのか、それは問われません。どんなに深い人間の闇にも、このイエスの愛の光は届いているのです。「わたしは今の姿のままのあなたを愛している。そしてそのことをあなたに告げるために、わたしは、自分の命を、自分の存在をかけたのだ」、そうイエスは語っているのです。  

自分の力では変わることのできないわたしたちに対する、このイエスの愛を今日もしっかりと受け止めて、共に感謝をささげましょう。          
                                                                                      (9月30日 甲子園教会礼拝説教より)