聖書随想(31)「世界を『知る』ということ」

「神は言われた、『光あれ。』こうして、光があった。」〈創世記一章三節〉

 「愛とは、それ自体が知である。人は、愛すれば愛するほど、よりよく知る。」聖グレゴリウスはそのように語ったそうです。

 なぜ「愛すること」が「知ること」とつながって来るのでしょうか。

 通常「知ること」は、その対象についての知識を得ることと同じ意味に考えられています。これは西欧における自然科学の発展と大きく関わっている考え方です。

 神と自然を切り離した西欧キリスト教社会においては、自然を研究することは神への冒涜ではなく、かえって人間が、神からまかされた自然を従えるために必要なことだと考えられました。
こうして西欧では、自然を研究、解明することが、信仰的な観点からも推し進められたのです。

そしてその結果、人は自然を研究の対象として眺め、何度も実験等を繰り返してデータを集め、答えを得る、という「客観的な態度」を身につけました。そしてこの客観的な態度によって得られた客観的な知識こそが、絶対的な真実だと考えられるようになったのです。

現在わたしたちが持っている世界理解もまた、そのような絶対的に正しいと信じられた客観的な知識のうえに築きあげられたものだと言えるでしょう。

 しかし問題は、このような客観的な知識がこの世界のすべてを本当に捉えることが出来るのかどうか、ということです。この世界を主客に分かつことで得られた客観的な知識であるならば、それはこの世界の半分しか捉えられていないのではないか、とも考えられます。

 聖書の冒頭にある「創世記」には、神による天地創造の様子がこのように描かれています。
 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。…第一の日である。」

 このように、全てを覆う混沌に対して、神はまず光を創造されました。しかしこの「光」とは、太陽の光のことではありません。なぜならば、太陽の創造はこの後、第四の日に行われるからです。
 では、この「光」とは何か。それは、被造世界を飲み込もうとする混沌に対して、これを支えようとする神の「愛」を表わすものだったのです。そのようにしてこの世界は、その根底を神の愛によって支えられているのだ、と聖書は語っているのです。

 このように、もし世界が神の愛によって支えられているのだとすれば、この世界を知るためにまずわたしたちがしなければならないことは、この神の愛を知ることです。

 神の愛を知るとは、その愛を客観的に観察し、愛についての知識を得ることではありません。それは、自分自身が愛し、愛される、その神との愛の関係に入り込むこと、その関係性の中に自分を投げ出すことです。
そしてこの、神の愛に自分自身を投げ出すことを、キリスト教では「信仰」と呼んでいるのです。

 わたしたちが持つ客観的な知識は、この世界の破れを示しています。この世界について知れば知るほどに、わたしたちはこの世界の愛がゆがんでいることを知らされます。

 しかしだからこそわたしたちは、この世界の真実を知るために、神の愛にこの身を投げ出すのです。

 そして、自分が神の愛に身を投げ出し、この愛を信頼し、自分をゆだねようとするそのときに、初めてわたしたちは、この世界の真実を知るのです。

 それは、主と客の二つに分かたれていない世界、わたしが神とその世界を知っていると同時に、神とその世界もまたわたしを知っている、愛していると同時に愛されている、そのような愛に裏打ちされ、愛に支えられた世界なのです。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)