福音のメッセージ「いいゆだね」

聖書箇所:出エジプト2:11~22、マルコ14:66~72、ヘブライ11:23~2814 

教会の歴史を見てゆく時に、ある人物が美化され権威化されて行く、ということがよくあることに気づきます。

今日のヘブライ人への手紙の箇所も、まさにその典型のような言葉です。

このように書かれています。「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。」

この短い言葉には、モーセの半生が描かれています。そして、モーセがエジプトを去った理由として、それは彼の信仰によるものだった、と書いているのです。

しかし、本当にモーセは、自分の信仰によって、王女の子である立場を捨てたのでしょうか。

そこでそのお話の出典である出エジプト記のお話を読みなおしてみますと、決してそうは書かれていないことが分かるのです。

エジプトの王女の子として育てられたモーセは、成人した時に自分が本当はヘブライ人であることを知ります。そしてある日、同朋のヘブライ人がエジプト人に鞭打たれているのを見て腹を立てて、そのエジプト人を撃ち殺してしまうのです。

この事件はすぐに発覚し、そのためにモーセはエジプトから逃亡せざるを得なくなり、八〇歳になるまでミディアン地方に隠れ住んだのです。

このように、モーセはその信仰によってエジプトの王女の子である立場を捨てたのではなく、自分が犯してしまった殺人の罪により、エジプトから逃げ出さざるを得なかったのです。

しかしそうやって、逃げ出して隠れて暮らすことしかできなかったモーセを、神様は同胞のイスラエル人を救う使者として呼び出されたのです。

そして、このモーセに起こったような出来事がイエスの弟子であったペトロにも起こったのです。

ペトロもまた、どんなことがあってもイエスに従うと言いながら、最後になってそのイエスを裏切り、見捨ててしまいます。そのためにペトロは、ただ逃げるか、隠れるかしかできない、そういう事態に陥ってしまうのです。

しかし、そういうペトロを、復活のイエスは教会の礎として呼び出されました。

このように、人を殺したモーセも、イエスを見捨てたペトロも、もう自分では何もすることが出来なかったのです。彼らに出来たことは、ただゆだねることだけでした。しかし、彼らが仕方なくゆだねたときに、神様はその二人に働きかけられて、死にかけていたようなその二人がもう一度生き返って、神様の業のために用いられたのです。

このお話から分かるように、「ゆだねる」ということは、わたしたち人間が何も出来なくなった時に、はじめて起こることなのです。人間的に出来ることはすべてやって、それでももうどうしようもない、自分では手も足も出ない、人間的な可能性はすべて閉ざされた、そうなった時にわたしたち人間は神様にゆだねざるを得ないのです。

しかし、そのような「ゆだね」こそが、まさに「いいゆだね」なのです。わたしたちの力が尽きたところで、初めて神様の力は働くのです。

イエス・キリストの死と復活というのは、そのことをわたしたちに示しています。神様の力は、イエスの力がすべて尽きた、その十字架の「死」の中にこそ働いたのです。

だからパウロもこう語りました。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱い時にこそ、強いからです。」

十字架と復活のイエス・キリストに現れた神様の力を信じて、手も足も出ない時にこそ、神様にゆだねる者でありたいのです。    
       
(10月1014日 甲子園教会佐藤成美牧師の礼拝説教より)