日々の想い(56)「『山歩き』のおすすめ」

秋も深まり、いよいよ紅葉の季節となりました。

 この季節になるといつも思い出すのが、以前住んでいた高槻の山々の風景です。
 羽柴秀吉と石田光成による天下分け目の戦いで有名な天王山や、その天王山に駆けつけるために秀吉軍が備中高松城から駆け抜けたと言われる「太閤道」、更にはその奥にある山頂で飛べばポンポン音がすると言われる「ポンポン山」などなど、風の向くまま、気の向くままに、高槻から京都にかけての山々を歩き廻っていました。

 最初の頃は地図も持たず歩いていたのですが、さすがにこれはまずいだろうと思って、途中からは地図を片手に歩きました。

 その頃は麓から緑の山々を見るだけで心躍る気がして、「さあ、今から歩くぞ」という勇んだ気持ちで、山に分け入っておりました。

 しかし残念ながら、今では山歩きどころか、近所の散歩すらしていません。

 そうやって「いつかまた山歩きを」と考えながら、ふと思ったのが、「確かに本物の山は歩いていないけれども、別の山はなんとかかんとか歩いているんじゃないか」ということでした。

 わたしが洗礼(クリスチャンになるための儀式、教会の聖礼典のひとつ)を受けた時、その直前の準備会である牧師がこのようなお話をされました。
「ある人たちは、『どんな宗教でも結局は皆同じなのだ、なぜならば、目指す山の頂上(真理)はひとつなのだから』、と言います。しかし大事なことは『山頂はひとつ』と口だけで言うのではなくて、実際にその山頂を目指して歩くことなのです。」

 そう言ってその牧師は、これからクリスチャンとして歩みだそうとするわたしをはじめとする洗礼志願者たちに向かって、信仰者とは山頂(真理)を目指して歩む登山者のようなものだ、と教えられたのです。

 イエスもこう語っておられます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ福音書一四章六節)

 この言葉にある通り、キリスト教において目指すべき山頂、その真理は、イエス・キリスト御自身です。

 そして、その真理であるイエス・キリストを知るためには、そのイエスという「道」を歩んでみなければならない、そのイエスにある「命」を生きてみなければならない、ということです。

 そうやって、わたしたちがイエスという「道」を歩み、イエスにある「命」を生きてみる時に、イエスにある「真理」がわたしたちに示されて来るというのです。

 では、イエスの道を歩くとか、その命を生きるとは、具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。
イエスと共に歩み、生きること、それは聖書を読むことから始まると、わたしは思っています。

 聖書を読むとは、聖書に書かれている教えを読んで守る、ということではありません。それは、聖書と対話するということです。

 聖書には奇跡物語をはじめとして、意味の分からないお話や言葉がたくさん出てきます。それら一つひとつと丁寧に向き合いながら、それらの物語や言葉に隠されている意味を尋ね求めて行く時に、聖書はその扉を開いて、わたしたちの心にひとつの「答え」を示してくれます。 

 そうやって人生の折々に、聖書に尋ね、答えをいただいて歩んで行く、これが聖書との対話ということであり、それがまたイエス・キリストの道を歩み、その命を生きるということの始まりなのです。
聖書が語る真理とは、ギリシアの哲学者が考えたような永遠・不変の絶対的な真実・理念のようなものではありません。それは、聖書とわたしたちとの対話、イエス・キリストと共に歩み、生きる、その具体的な関係性の中に宿っているものなのです。
皆さんも、真理を目指した「山歩き」を始めてみませんか。 (甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)