福音のメッセージ「神様あるある」

聖書箇所:出エジプト3:1~15、ルカ20:27=40、ヘブライ8:1~13

 「われ思う、ゆえにわれ在り」、これは「近代哲学の父」と言われるルネ・デカルトによる有名な哲学の命題です。

 この命題の背後には、ヨハネ福音書の「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。」があります。

 まず神があり、真理がある、この中世までは当たり前であった考え方に対して、デカルトはまずこの世界のすべてのものを疑ってみるという姿勢から始めます。そうやってすべてのものを疑う中で残るものは、すべてを疑っている自分だけだ、すべては偽りだとしても、それを疑う自分だけは確かにここに在る、これがこの命題の意味するところです。

 このデカルトの命題からわたしたちが受け継いだのは、この「疑う」という姿勢です。だからわたしたちは神様を疑う、聖書を疑う、教会を疑う、ということをする訳です。

 実はこれはとても大切なことで、わたしが神学部で学んだことも、基本的にはこのような疑う姿勢、批判する姿勢でありました。 
つまりそれは、何事も頭から信じるのではなく、神様に対しても聖書に対しても、「なぜなのか」という「問い」をもって向かい合うということです。

 そうやって神様というようなものと相対しながら、その中で、自分を支え、生かし、導く、そういう見えざる神の手がやはりあるのだ、ということをわたしたちが経験的に知って行く、神様とは何か、真理とは何かを示されて行く、そのことが大切なのだろうと思うのです。

 今日の出エジプト記に出て来るモーセという人もまた、そのような「問い」を持ちながら神様を知っていった人です。

 ミディアン地方に隠れ住むモーセに現われた神様は、このように言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た。…今、行きなさい。…わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
しかし、この神様の命令から逃れようとしたモーセは、「神様の名前を同朋のイスラエル人に聞かれたら、何と答えれば良いのでしょうか」と問うのです。

 神様はこう答えられます。「わたしは有って、有る者」。

 「有って有る」とは、神様がこの世の全てのものをここに存在させておられる方であると同時に、それら全てのものを神様が持っておられるということです。つまり神様は、造られた全てのものに対して、「あなたはわたしのものだ」と仰っているのです。

 そしてこの、全てのものの存在を在らしめ、「あなたはわたしのものだ」とおっしゃられる方が、モーセに対して「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われたのです。

 そうやって神様は、この先どんなことがあろうともわたしは必ずあなたと共に在り、あなたをわたしのものとし、支え、守って、愛しぬく、そういう熱い思いが、「わたしは有って、有る者」という神様の言葉には込められていたのです。
 そしてモーセは、この神様の言葉が真実であることを、イスラエル人をエジプトから救い出す、その働きを通して知って行くことになります。

 「わたしは有って、有る者」、「あなたはわたしのもの」、その神様の深い愛が、今、イエス・キリストを通してわたしたちにも告げられています。

 わたしたちも日々の生活を生きて行く中で、この神様の言葉の真実さを知って行く、そのような者でありたいのです。
                                                                           (11月18日 甲子園教会 佐藤成美牧師による礼拝説教より)