福音のメッセージ「たとえ器は小さくても」

(聖書箇所:エゼキエル43:1-7a、マタイ28:16-20、使徒1:12-26)

 預言者エゼキエルはその預言の中で、幻で見た聖なる神殿の聖所(神の宿る部屋)の作り方について語っています

 例えば、その部屋に近づく祭司は神聖なものを食べてから近づくとか、その部屋には最も神聖だと思われるものを置くとか、そこに出入りする祭司は着ている服を着替えるとか、そのようにしてエゼキエルは、どのようにして人々に、その部屋が神聖なものであると思わせるのか、その仕掛けづくりを詳しく語るのです。

 このエゼキエルの預言にも表れているように、ユダヤ人たちはいつの時代にあっても、神の宿る聖なる場所、「聖所」を作り出そうとしてきました。それはユダヤ人たちが、「聖なる場所にこそ神様は宿る」と、信じていたからです。

 ところが、そのユダヤ人の信仰が決定的に打ち砕かれる出来事が、エゼキエルの時代から約6〇〇年後に起こったのです。それが、今日の使徒言行録に記されているペンテコステの出来事です。

 ではそのペンテコステ(ユダヤ教のお祭りのひとつ)の日に何が起こったのかと言いますと、イエスの弟子たちをはじめとして、イエスをキリストと信じる者のうえに聖霊(神の霊)が降ったのです。

 人間に神様の霊が降ったという、このペンテコステの出来事は、当時のユダヤ人にとってはとてもショッキングなものでした。なぜならばそれは、「聖なる場所」に宿るべき神様の霊が、「聖なる者」「清められた者」ではない、俗なる人びとのうえに降った、ということを意味したからです。

 そして、「神様の霊が人間に宿る」ということを、もっとはっきりと語ったのが、使徒パウロでした。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか。…神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント三・一六,一七)

 ここでパウロは、コリント教会の人々に「あなたがたは神の神殿だ」と語っているのですが、しかしそれはコリントの教会の人々が神様を宿すに相応しい聖なる人々だ、ということではありません。パウロは、神様の霊はべつに聖い訳でもなんでもないあなたたちの内に、そしてわたしたちの内に、ちゃんと宿っているのだ、ということを言っているのです。ですから、このパウロの発言もまた、当時のユダヤ人にとっては相当過激な発言だったのです。

 ではなぜパウロがこのような過激な発言をすることが出来たのかと言いますと、それはイエス・キリストへの信仰の故でした。

 マルコ福音書によれば、イエスが十字架で死んだ時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。

 この「神殿の垂れ幕」とは、神殿の聖所と至聖所を分ける垂れ幕、つまり、聖と俗を分けるものでした。

 しかし、イエスが十字架で死んだことによって、聖と俗の区別は取り払われたのです。神様は今や聖俗を超えて、人間の世界に、人間のうちに宿られるようになったのです。

 わたしたち一人ひとりは、聖なる者でもなんでもなく、ただの空っぽの器に過ぎません。しかし、そんなわたしたちの空の器に、神様は既にやって来て、宿っていてくださるのです。

 そうやって神様は、ありのままのわたしのうちに在り、わたしたちと共に、このありのままの世界の中を生きておられるのです。 

 イエス・キリストを通してなされた、この神と人の和解の業に、心から感謝したいと思います。 

                                                                           (2019・6・2 佐藤成美牧師による甲子園教会礼拝説教より)