聖書随想(35)「わたしの主、わたしの神よ」

「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」 <マルコ一章四一節>
 
 牧師は職業上、あまり自分自身のことを語ることが出来ませんが、今回は小さな証しを立てさせていただきます。

 わたしは離婚し、再び結婚した牧師です。

 わたしのもとを元家族が離れて出て行った時の気持ち、それは「取り返しのつかないことが起こってしまった」という絶望、今にも絶叫しそうな、しかし息が詰まりそうな、言葉には出来ない程の恐ろしさ。それはちっぽけなわたしにとっては、「地獄」にも思えるものでした。

 家族がいないがらんとした牧師館(牧師の住居)に毎日帰って一人で過ごすことも、本当に怖かったです。今思えば、その当時がわたしの人生の中で一番の危機のときでありました。肉体的にも、精神的にも、です。

 その時のわたしの姿を知っているある牧師は、「よくあの時を乗り越えたね」と、今でも言ってくれます。

 そのような孤独が一年近く続いたでしょうか。しかし、実はその時すでに、現在のわたしの妻は、わたしのすぐ近くにいたのです。なぜなら彼女は、その時わたしのいた教会で働いたからです。しかし、彼女は彼女の道を歩んでおり、わたしは独りで苦しみの中におりました。

 当時のわたしは家族との別離だけではなく、親の介護、実家の後始末等々、色々な問題を抱えていましたが、その後親しくなった彼女は、そんなわたしを本当に助けてくれました。

 正直に言うと、恋愛感情というものではなく、ただ助け手として彼女がいてくれた、というのが実感です。そして、もしこの出会いと助けがなければ、わたしはその苦しみの時を乗り越えられたかどうか、分かりません。

 その後、教会を変わり、彼女と結婚するということになったのですが、その結婚を巡って、ある人たちに誤解をされることになりました。

 鈍感なわたしには最初は全然分からなかったのですが、ある時から、わたしと出会う若い頃からのクリスチャンの知り合いの人たちの態度が一変したことに気づきました。

 「なるほど、わたしが不倫→離婚→再婚した、と疑っているのだな」、そのことを確信した時の腹立たしく、悔しい思い。しかしまた同時に、勘違いされることをやった自分が悪かったのかという思い。

 そのような中、やっぱり自分は人生をやり直すことは許されないのか、今自分はどんな声を聞くべきなのか、悩みました。そして、そこで手を伸ばしたのが、やはり聖書だったのです。福音書で一番古いマルコ福音書を読みました。

 そこに登場するのは、汚れた霊に取りつかれた人や病気の人、「障がい」を持つ人などで、この人達は皆、当時のユダヤ社会では、汚れた者、罪深い者とされていたのです。

 しかし、汚れた霊に取りつかれた人は本当に汚れているのか、病気の人や「障がい」を持つ人は本当に罪深い人なのか、これがイエスの発した問いでした。そしてイエスはそのような人たちを癒し、「罪人」「汚れた人」という周囲の人々の偏見から解き放って、これを自由にされたのです。

 それを改めて読んだ時に、それまで気づかなかった新しい福音書の世界が、自分の目の前に開けたような気がしました。

 そして、わたしもまた聖書の世界の片隅に住まわされているのだ、イエス・キリストは、こんなちっぽけなことに悩むわたしのために来てくれたのだ、そう心の底から思えたのです。

 周りの人々から、「あいつは奸計を巡らし、お金を奪おうとしている偽物の使徒だ」と批判されていた使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と書きました。そのパウロの気持ちが、痛いほど分かります。 

 ですから、わたしもまた、イエス・キリストが他の誰にとってでもなく、わたしにとっての主であり神であることを、心を込めて告白いたします。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)