日々の想い(58)「知らず知らずのうちに」

 きっかけは、どんぐり組の二歳児がこひつじ礼拝(一歳児を除く全園児礼拝)に参与するようになったことだったと思います。

 それ以来、聖書のお話を出来るだけ分かりやすくしようと思って、幼稚園やこどもの礼拝で視覚教材を多用するようになりました。

 最初は簡単なマペット(牛乳パックで作れます)とトラ吉(これはタイガースのマスコット「トラッキー」にタオルを巻いたもの)でのお話だったのですが、次第に手が込んだものとなり、そこから更にペープサート、紙芝居作りへと進んで来ました。

 これまでに作ったお話は、マペットによる「なきむしがえるとおこりんぼ猫」、「徴税人ザアカイ」、「カラスと野の花(山上の説教より)」、そこからペープサートに移り「イサクの誕生物語」、「もうひとりのはかせ」と、レパートリーが増えて来ました。今、新作も準備中です。

 わたし自身、絵を描くなどということは、それこそ高校の美術の授業以来という感じで、自分で絵を描き、色を塗った時には、まさに大人になって砂場遊びをしたような不思議な感覚でした。

 絵を描いてみた後のことですが、正面から見た人物の足の描き方に特徴があることに気がつきました。

 特に何かを参考にした訳でもないのですが、その足の描き方が(わたしの勝手な思い込みかもしれませんが)、なんとなく手塚治虫風に思えたのです。

 勿論、今まで手塚治虫の画風を学んだことなどあるはずもありません。ただ「鉄腕アトム」をはじめとして、こどもの頃から手塚漫画はいやというほど読んで来ましたので、知らず知らずのうちに、その手塚治虫の描く足の映像が自分の頭に刷り込まれていた、ということなのでしょうか。

 そのようなことを思いながら、これまたふと、「神の子とされるとはどういうことなのか」ということを思わされました。

 聖書の中には、イエス・キリストを信じる者が「神の子とされる」(=「主と同じ姿に造り変えられる」)という言葉が繰り返し出てきます。

 例えば、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント三・一八)という言葉です。

 人が神の子とされることをプロテスタント教会では「聖化」、ギリシア正教会では「神化」と呼んだりしますが、果たしてどのようにしてこんな世俗的なわたしたちが「神の子」などと呼ばれるものになって行くのでしょうか。

 このことは、長年教会に通っている者でも、或いは牧師と呼ばれるような教職者でも、よく分からないことなのです。

 礼拝を守り、聖書を読み、その「教え」(?)を心に刻んで、清く正しく美しく、まさに「クリスチャンらしく」(?)生きることを心がけているならば、その人は「神の子」とされるのでしょうか。

 聖書をよく読むと、決してそのように書かれていないことが分かります。それは「聖霊の働き」、つまり神様の働きによることであって、人間が自分の力、自分の努力で「神の子」になることなど、出来ないことなのです。

 そういう意味で、わたしたち人間が「神の子」になるということは、無意識の内に、知らず知らずの内にそうなる、ということになります。

 わたしたちの知らないうちに、それでも神様はわたしたちの内に働きかけてくださって、知らず知らずのうちに、こんなわたしたちがイエス・キリストに似た姿、「神の子」の姿に変えられて行くのです。

 これはまたなんと贅沢で、ありがたいことでしょうか。

 だからわたしたちがなすべきことは、ただただ感謝してわたしたちを神の子に変えてくださるという神様の約束の言葉を受け取る、ということだけなのです。

 だからこれは、いうなればわたしたちに対するお年玉のようなものです。

 こどもが喜んでお年玉を受け取るように、わたしたちもまたこの神様の約束の言葉を、喜んで受け取りたいと思います。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)