聖書随想(33)「これはわたしの体である」

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』」    〈マルコ福音書一四章二二節〉

 キリスト教が誕生した古代ローマ帝国の時代、キリスト教徒は周囲の一般市民から、「あいつらは人肉を食べ、その血をすすっている」と、陰口をたたかれました。

 そして、このような陰口は、当たらずといえども遠からずのものだったのです。なぜなら教会ではその礼拝の中で、「イエス・キリストの血を飲み、その体(肉)を食べる」という儀式を行っていたからです。

 イエスと弟子たちが共にした「最後の晩餐」にちなんだこの儀式を、プロテスタント教会の中では「聖餐式」と呼びます。(教派によって違いがあります。例えばローマ・カトリックでは「聖体拝領」。)

 ですから甲子園教会でも基本的には毎月一回、第一日曜に、「これはキリストの体」「これはキリストの血」と言って、パンとぶどうジュースを飲む聖餐式が執り行われているのです。

 しかし実は、このキリストの血を飲み、肉を食べるという儀式を、どこまでリアルなものとして受け取るか、ということを巡っては、教会の中で長年に亘る議論がありました。

 例えば、ローマ・カトリック教会では、ミサ(礼拝)における聖体拝領の時に、司祭がパン(実際にはパンではなく、ホスティアと呼ばれる薄いウエハースのようなもの)とぶどう酒を掲げて祈りの言葉を唱えると、そのパンとぶどう酒が本物のイエス・キリストの体と血に変化する、と信じられました。そして、司祭の祈りによってパンとぶどう酒がキリストの体と血に変えられることを「聖別」と呼んだのです。 

このようなローマ・カトリック教会の理解に対して、批判を加えたのが、ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターでした。

 ルターは司祭の祈りによってパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる「聖別」を、迷信的な考えとして否定しました。

 その代わりにルターは、聖餐式においてパンはパン、ぶどう酒はぶどう酒のままだが、しかし、そのパンとぶどう酒の素材の「中に」、「共に」、「下に」、キリストは実在する、と唱えたのです。

 これに対してスイスの宗教改革者のツヴィングリは、パンとぶどう酒は、ただキリストの体と血を想起するための「記号」に過ぎない、と唱えました。
 このように、ローマ・カトリックと立場を異にする宗教改革者の中にも、聖餐におけるパンとぶどう酒の理解には違いがあったのです。そして、これをまとめる形で提唱したのが、宗教改革第二世代のカルヴァンという人です。

 カルヴァンは、聖餐においてパンはパンのまま、ぶどう酒はぶどう酒のままだが、聖霊の働きによって、それを食する人の内で霊的に、それらはキリストの体と血になる、と唱えました。そして恐らくこのカルヴァンの理解が、現在のプロテスタント教会での一般的な理解になっていると思われます。

 ですから、もし洗礼を受けていない人が聖餐式でパンとぶどう酒を口にしたらとどうなるか、ということについてカルヴァンは、それは香りのしないぶどう酒を飲んでいるようなものだ、と言いました。

つまり、信じることなしにパンとぶどう酒を口にしても、それは聖霊においてキリストの体と血にはならず、ただパンとぶどう酒を口にしているだけなのだ、ということです。

 教会や教団の中で、「洗礼を受けていない人は聖餐式にあずかることができない」ということを巡って議論がなされる場合もありますが、この「あずかることができない」は単に「食しては駄目」という意味よりは、そもそも信仰を持たずに聖餐にあずかっても聖霊が働かず、それは聖餐にならない、という意味に解するべきなのでしょう。

 ただし例外もあります。と言いますのは、新約聖書には、洗礼を受けていない人に聖霊が働くお話が出て来るからです。(使徒言行録一〇・四四以下)

 そういう意味では、洗礼を受けていない人が聖霊の働きを受けて、聖餐に「あずかること」も可能だということなのでしょう。なぜなら、神様に不可能は無いのですから。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)