聖書随想(34)「聖さの伝染」

「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。」<出エジプト記三四章二九節>
 
イスラエル民族、そしてその末裔である古代のユダヤ人にとって、「穢れ」とは伝染するものでした。
 
この場合の「穢れ」とは、汚い、不衛生という意味ではなく、宗教的な穢れのことであり、穢れを帯びた者は、神の救いから遠いと見做されたのです。
 
そして、何が穢れたものなのかについての規定が、律法と呼ばれる神の教えの中に、事細かに記されたのです。
 
有名なところでは、蹄が完全に割れている豚や猪は穢れた生き物とされ、これを食べることは許されませんでした。 
 
死者も穢れたものでした。ですからうっかりお墓に立ち入らないように、お墓は白く塗られていました。
 
また生きた人間に対しても、病人や「罪人」(律法を守ることが出来ない人たち)、そして異邦人(ユダヤ人以外の民族の人々)などは、穢れていると見做され、その近くに寄ることは禁じられたのです。
 
そのようにしてユダヤ人たちは、穢れたものを遠ざけて自分達を聖別しようとしました。(「聖別」とは、文字通り「聖いもの」と「穢れたもの」を分けるということです。)
 
ところが面白いことに、うつる(伝染する)のは「穢れ」だけではなく、「聖さ」もまたうつるのだ、ということが、聖書にははっきりと記されているのです。
 
前掲の聖書の言葉の場面はまさにその典型です。

かつてイスラエルの民がシナイの荒れ野をさ迷ったとき、その指導者であったモーセはシナイ山に登り、そこで神様から十戒(律法の原型)を受け取ります。そして、山から降りて来たモーセの顔は、光り輝いていたというのです。この光とは、神様の聖さ(聖性)を表しています。神様の聖さがモーセに伝染した、そのように聖書は書いているのです。

そして実は、このような聖さの伝染は、イエスをキリスト(救い主)と信じた、後のキリスト教会にも受け継がれました。

そのことを使徒パウロはこのように書いています。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは穢れていることになりますが、実際には聖なる者です。」
(コリントの信徒への手紙七章一四節)

イエス・キリストを信じる者の帯びた聖性、それはその夫やこども、つまりその家族にも伝わって行くのだ、そうパウロは語っているのです。(新免貢『「新」キリスト教入門』「イエス感染症」参照)

勿論、イエスが言ったことは、パウロを超えています。イエスはこの世には食物をはじめとして穢れているものなど何もない、ただ人の心から出る悪い思いが人をけがすのだ、と言われました。

このようにイエスは、この世界における「穢れ」と「聖さ」の区別そのものを取り去りました。ですから、イエスによればこの世界にはもはや、神様から遠い穢れた者と神様に近い聖なる者との区別はないのです。
とは言いながら、わたしはパウロの書いた言葉もまた素敵だなと思っています。

「穢れがうつる」という発想は、人と人との間に区別と差別を生みだします。しかし、「聖さがうつる」というのならば、しかもしそれが知らず知らずのうちにそうなる、というのならば、それは人と人との隔てを無くし、これをひとつにして行くことにはならないでしょうか。

なぜならば「聖さ」がうつった人たちは、皆、神様の近くに呼び寄せられ、神様の家族とされるからです。
 
古代のユダヤ人たちがそうであったように、教会もまたその歴史の中で、たくさんの区別、差別を人と人との間に生み出し、多くの悲劇を生み出してきました。

しかし、そんな教会の愚かな行いをよそに、それでも神様の聖さは、知らず知らずのうちにこの世界の中に広がっている、一人の人からその家族へ、そしてその家族から別の家族へ、そしてその地域、その地方、その国から他の国へと広がっている、そのように想像することは、たとえ夢だとしても、わたしたちに大きな希望を与えることではないでしょうか。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)