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2015年7月5日発行 98号
日々の想い(32) 「教会と幼稚園@〜愛を伝えるとは〜」

 今月よりしばらく教会と幼稚園のこと、特に教会に幼稚園が併設されていることの意味について、わたしなりに考えてみたいと思います。
 そこでまず考えたいのは、愛を伝えることについてです。愛を伝えるとは一体どういうことでしょうか。
 今、祈祷会では、私訳によりローマの信徒への手紙を読んでいます。ようやく9章までたどり着きましたが、難解な部分もあり、この手紙においてパウロが伝えようとしたことが、読み手にはなかなか伝わりにくい、ということを感じています。
 パウロが伝えようとしたことは、8章までに限って言えばいたってシンプルです。それは、この地上のどんな被造物も、イエス・キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない、ということです。
 このパウロの言葉は、宇宙的な広がりを持つものです。つまり、パウロにとってイエス・キリストの愛とは、それほどに大きく、深く、豊かなものだということです。ところが残念なことに、このパウロが感じているキリストの愛の豊かさが、読み手にはなかなか伝わらないのです。
 言葉の力は偉大です。しかしまた、言葉だけでは伝わらないことがあるのも事実です。そのことをするどく指摘しているのは、ヤコブの手紙です。「『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ二・一六)
 クリスチャンセミナーにおいて奥田和弘先生は、日本で初めて幼児保育を行った女性宣教師たちのお話をしてくださいましたが、宣教にあたって彼女たちが考えたのも、まさにこの点だったと思います。
 日本という異国の地において、イエス・キリストの愛を伝えるためには何をなすべきなのか。それはただ単に教会を建て、礼拝を守り、福音を宣べ伝えるということだけに留まらず、その当時ほとんど顧みられることのなかった日本のこどもたちを具体的に愛すること(保育すること)によってだ、と彼女たちは考えたのです。
 先日、幼稚園の朝の準備会で、ある先生がとても良いお祈りをしてくださいました。それはこのような祈りです。「神様、わたしたちがイエス様に愛されているように、わたしたちもこどもたちを愛することが出来ますように。」
 この祈りには、キリスト教保育の最も大切な精神が表れています。なぜならば、キリスト教保育とは神様(イエス様)とわたしたちとの愛の関係を、保育者とこどもとの関係において表そうとするものだからです。
 教会と共にある幼稚園は、イエス・キリストの愛をその保育の業によって、こどもたちに、その保護者に、そしてそれを取り巻く地域の人々に伝えているのです。
 このように考えてきますと、幼稚園は教会の宣教の業の最前線にあることが分かります。
 教会の礼拝においてキリストの愛をたたえる者たち、そして幼稚園でキリストの愛の業に心血を注ぐ者たち、この両者の祈りがもっともっとひとつになって行けばと願っています。
(甲子園教会牧師 佐藤成美)


2015年8月2日発行 99号
日々の想い(33)「教会と幼稚園A〜こどもたちと戦争〜」

 どうしてもその絵を観てみたい、と思っている画家の作品があります。それはドイツ人のケーテ・コルヴィッツの作品です。
 しかし、多くの人の目には、彼女の作品は好ましいものに映らないでしょう。なぜなら彼女の作品は、その初期のものを除いて、ほとんどすべてがモノクロの版画作品か彫刻であり、しかもそのテーマは抑圧されている労働者の闘いや、戦争とその悲惨さに関わるものだからです。
 そのような彼女の絵の中で、ぜひこれを観てみたいとわたしが思っているのは、ゲーテの言葉に想を得て描かれた『種子を粉にひくな』という作品です。それは、ひとりの女性が、その腕の中に三人のこどもたちを覆い囲みながら、向ってくる敵を睨みつけている場面を描いたものです。こどもたちを一人も敵に渡すまいとする、その女性の腕の描写の力強さに心を打たれます。
 なぜケーテがこのような作品を描いたのか、それは彼女が第一次大戦で次男を、そして第二次大戦では孫を戦死させているからです。特に次男は、祖国のために命を捨てることこそが今自分の為すべきことと信じ、志願して戦地に赴きました。そしてケーテは、その次男の思いを止めることが出来なかったことを、生涯に亘って後悔し続けたのです。
 沖縄の普天間基地のゲート前では、毎月二回、平和を求めるキリスト者によって讃美歌を歌う集いが開かれ、おとなやこどもが集まっています。 その集いにわたしが参加した時のことです。このような讃美歌が歌われました。「このこどもたちの未来を守り、生きるべきいのち、共に生かされ、平和をよろこぶ、世界を望む。主よ、祝したまえ、大地を、大地を」  いつも教会で何気なく歌っていたその讃美歌を、米軍基地前で、しかもこどもたちを目の前にして歌ったとき、わたしはその歌詞の意味がはじめて本当に理解できたように思いました。
 なぜ戦争はいけないのでしょうか。それは、戦争に行くのがこどもたちだからです。しかもそれは他人のこどもではありません。ケーテ・コルヴィッツの例をあげるまでもなく、そのこどもとは、わたしのこどもであり、わたしの孫、そしてあなたのこどもであり、あなたの孫であるからです。自分の愛するこどもたちや孫たちが、人肉の飛び散る戦場で殺し、殺されてゆく、その恐ろしい現実に、一体誰がもろ手をあげて賛成することが出来るでしょうか。 国は国とその権益を守るために戦うのであって、国民を守るために戦うなどということは決してしません。どんな戦争においても国民は、そして特に戦場に駆り出されるこどもたちは、「お国のため、家族のため」という美名のもと、国の犠牲になってきました。そのことをわたしたちは、過去の悲惨な戦争の実例から学んで来たのではなかったでしょうか。 「種子を粉にひいてはならない」 教会に集うこどもたち、幼稚園に通うこどもたち、その愛らしい顔を見る度に、いつもこの言葉を心に思い浮かべるのです
(甲子園教会牧師 佐藤成美)


2015年9月6日発行 100号
日々の想い(34)「教会と幼稚園B〜ありのままのこどもを〜」

 先日幼稚園で、夏の間に先生たちが参加した研修会の発表がありました。その発表の中のひとつが心に残っています。 それは、幼稚園教員だけではなくて、小学校の教員も参加した研修会についての発表でした。 参加した先生によれば、その研修会の冒頭に講師が、ある幼稚園の写真、前に立つ先生の周りにこどもたちが集まっており、その中の何人かは後ろのほうで寝そべったり、横を向いたりしている、そういう写真を見せたそうです。
 そして、その写真についての感想を講師が求めたところ、「(寝転んでいるこども等について)こんなところでも居れるんだ。がんばってるね」という幼稚園の先生の感想に対して、小学校の先生は「どうしてこの子たちは前に来ないのか。先生はなぜ前に来させないのか」、そういう感想を述べたというのです。
 そして講師は、そういう感想の違いを踏まえながら、幼稚園と小学校ではこどもの教育に対して、根本的な発想の違いがあるという話をした、というのです。
 学校教育法によれば、幼稚園は「学校」に分類され、そこで行われるのは「教育」ということになっています。しかし、この幼稚園での「教育」とは、こどもたちの情緒を含む健康を育み、言葉によるコミュニケーションの基礎を築き、周囲の人間や環境との様々な関わりを持つように導き、内的な表現力を養う、というような「見えない教育」なのです。
 つまりそれは、人間形成の基礎の部分を養い育てるものであって、小学校のように、一定の目標を目指して、こどもたちを一律に教え育む教育とは、その目指しているところが根本的に異なっているということです。
 ですから幼稚園では、何かを一律に教えることではなくて、まずこどもたちを、それぞれの発達の違いを認めたうえで、受け留め、受け入れることに力を注ぐのです。
 このように考えてきますと、そもそも幼稚園が、キリスト教の思想を土台としたフレーベルによって生み出されたこともよく理解出来るのです。
 古代ギリシアのスパルタでは、健康そうな赤ちゃんは長老に抱かれ、その母も誇らしげにしているのに対して、ひ弱な赤ちゃんはライオンの待ち構える谷に投げ込まれそうになっている、そのような絵画が掲げられていたそうです。 そのかつてのスパルタのように、こどもの能力の優劣によって、これを選び、訓練し、育てることが、現代の日本社会においても行われていることがないでしょうか。そして、そこからこぼれ落ちるこどもが泣き叫んでいることはないでしょうか。
 イエスは、こどもをあるがままにみました。そして、「神の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。そのようにしてイエスは、こどもたちの側のさまざまな条件や特性や能力に一切関わらず、神の愛がこどもたちに注がれていることを教えられたのです。
 こどもたちをあるがままに受け留め、受け入れる、これがイエス・キリストにより、幼稚園に、そして教会(こどもの教会)に、託されている最も大切な業であることを、もう一度心に留めておきたいのです。
(甲子園教会牧師 佐藤成美)


2015年10月4日発行 101号
日々の想い(三五)「教会と幼稚園C〜キリスト教保育の精神〜」

 世に「キリスト教〜」と付く言葉はたくさんあります。神学部の授業科目を見ても、キリスト教美術、キリスト教音楽、キリスト教哲学、キリスト教倫理、キリスト教教育、キリスト教カウンセリング等々です。そして、キリスト教保育もまた、その内のひとつに数えられます。
 勿論、これらの言葉で使われる「キリスト教」の意味するところは、それぞれに異なります。美術や音楽の場合ですとそれは、キリスト教に関わるテーマを描いた作品という意味合いになるのでしょう。
 そのように様々な「キリスト教〜」の中で、今回特に取り上げたいのは、実践に関わる事柄です。
 例えばキリスト教カウンセリングというものを考えた場合、それが意味するのは、キリスト教独自のカウンセリング方法のことではありません。そうではなくて、一般に用いられているカウンセリングの方法を、キリスト教的な人間理解に基づいて用いる、これがキリスト教カウンセリングというものです。
 そしてこのことは、キリスト教保育にも当てはまります。
 世界で初めて幼稚園を作ったF・フレーベルは、それをキリスト教の精神に基づいて作り上げました。ですから、幼稚園教育・保育にはもともとキリスト教の精神が流れていたのです。
 とは言いながら、いま世にある幼稚園の多くは、そのことを自覚して保育を行っているわけではありません。つまり、一般的な幼稚園では、フレーベル等が築いた保育論とその方法論だけが残されて、肝心のキリスト教的な神観、人間観、こども観、世界観は見失われているということです。
 ですから、キリスト教保育を謳う幼稚園が何を為すべきなのかというと、まずその保育の本来の精神、つまり、キリスト教に基づく神観やこども観や人間観、世界観をしっかりと理解し、それに基づいてこどもたちや他者、そして自分自身と出会い、そして自分たちを取り巻く環境を見つめるということなのでしょう。
 現在、全日本私立幼稚園連合会は「幼児教育振興法(仮称)」の制定に向けて、その動きを加速しています。そして安倍首相をはじめとする自民党も、それを後押しすることが決定していると聞いています。
 「幼児教育振興法」は、国費投入による幼児教育の無償化や教職員の処遇改善など、その中身は是認すべきもののように思えます。しかし、その法案を説明する文章の中には、「国家戦略としての幼児教育」、「幼児教育・保育は国の将来への投資」といった言葉が躍っています。
 キリスト教保育においては、こどもは決して「〜のため」に教育されてはなりません。こどもは今の時を、そのありのままの姿で生きています。イエスは、「こどもたちをわたしのところに来させなさい」とおっしゃり、そのありのままのこどもの、今の姿を認め、これを受け入れられました。ですから、キリスト教保育を掲げる保育者は、そのイエスの姿に倣って、こどもの「今」を大切にし、これをありのままに受け入れることが求められているのです。
大人の価値観によってこどもとその教育が利用されようとする、そのような時代の中にあって、キリスト教に基づく保育の精神をもう一度見つめなおしたいものです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)


2015年11月1日発行 102号
日々の想い(三六)「教会と幼稚園D〜神の宣教・幼稚園・教会〜」

 かつて教会関係のある協議会に出席した時に、ひとりの牧師がこんな話をされました。その方は、これから任地に出て行く若い牧師に向かって、いつもこのように言葉をかけるというのです。「あなたの遣わされる場所に居られるイエスと出会いなさい。そうすれば、牧会の仕事が楽しくなりますよ。」
 わたしが幼稚園で園長として働くようになって、いつも気になっているのがこの牧師の言葉です。そしてこう思うのです。「わたしは幼稚園に居られるイエスと出会っているだろうか」と。
 直接聞いたわけではありませんが、恐らくこの牧師の言葉の背後にあったのは、「神の宣教」(ミッシオデイ)の神学だと思われます。
 「神の宣教」とは、一九五〇〜六〇年代に世界教会協議会(WCC)から生まれてきた神学です。
 かつてヨーロッパの教会は、「救いは教会から世界に及ぶ」と考え、まだキリスト教化されていない国々に宣教師を派遣しました。しかしそのような教会の宣教の業が、当時のヨーロッパ各国の植民地主義に利用され、キリスト教化=植民地化となってしまったのです。そしてその結果、引き起こされたのが、二つの世界大戦でした。
 そのことの反省から、戦後になってWCCは、教会の宣教方針を見直し、「救いは教会から」ではなく、「神は教会に先立って、この世界で働いておられる。そして教会とは、その神様の働きを共に担い、この世に仕える群れである」と考えたのです。
 神は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっている。そして教会はそれに従ってゆく、これが「神の宣教」の神学です。そしてこの神学は、戦後の世界の教会の歩みに大きな影響を与えました。
 それまで教会は、教会の「内」に「外」の人を引き込むこと(クリスチャンにすること)こそが、教会の宣教(伝道)の業だと考えていました。しかし、この「神の宣教」の神学によるならば、「内と外」という分け方は、もはや通用しません。なぜなら、神ご自身が教会の外に出て行って、その救いの業を為さっているからです。ですから、この神に従う教会もまた、教会から出て行かなければならないということです。
 かつて教会附属の幼稚園で働く教職員には、いつかは洗礼を受けなければならない、という不文律があったそうです。そして今でも、教職員は教会の礼拝に来るのが望ましい、ということが言われます。勿論、教会に来てキリスト教の学びを深めることは、キリスト教保育に携わる者としての大切な姿勢です。
 しかし、「神の宣教」の神学によるならば、教会に来なければ神様やイエス・キリストに出会えないという訳ではありません。教会だけでなくこの世界に、そして幼稚園に、神は、そしてイエスは居られるからです。つまり、見方を代えて言うならば、幼稚園もまた「教会」なのです。
 ですから、幼稚園におられるイエスと出会うこと、これがわたしの祈りの課題なのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)


2015年12月6日発行 103号
日々の想い(三七)「教会と幼稚園E〜どこで何を育てるのか〜」

 先日、全日本私立幼稚園幼児教育研究機構による第一回目の園長・リーダー研修会が東京で開かれました。
 その研修会の中で、これからの幼児教育について、政府や文科省が今どんなことを考えているのかについて、文科省の初等中等教育局長から話を聞きました。
 それによりますと、あと約五〇年で現在の日本の人口は約三割減少(六五歳以上は人口の四割)、生産年齢人口(一五歳以上、六〇歳未満)は、あと四〇年弱で半減するというのです。
 このように、これからの時代は、今までの社会を前提には対応できないものとなって行くのです。ですから、今後どのような人間を育てて行くのかが国の命運を左右するのであり、そこで重視されているのが幼児教育なのです。
 様々なことが言われているとはいえ、現在の日本の基礎的な学力は世界でもトップクラスです。しかし問題は、クリエイティビティ(想像力、創造力)です。困難に出会ったときに、たとえ一度挫折したとしても、発想や方法を変えてもう一度やってみる、そしてそのために、他者とコミュニケーションをとり、思いを分かち合い、協力し合う、そのような力を養うのは、学校教育ではなく幼児教育においてなのです。
 そういう意味において、幼児教育は人間が生きて行くための基本的な力を養い、これからの時代を担う人材を育てるためのとても大切なものとして、日本だけではなくて、今や世界的にその重要性が見直されているのです。
 その研修会で何人もの講師が口にしていたのは、幼児の頃からお勉強をさせても、それが小学校で持つのはせいぜい一年か二年程度、そして幼児時代に十分遊びこみ、幼児として養うべきことを養っていないこどもは、とても弱いということでした。
 帰りの新幹線の中で読んだ本の中で、次のような言葉に出会いました。「(小学校で)新しく出会う学習で、自分なりに考えたり、わからないことやできないことがあっても、あきらめずに取り組んだりすることが大切(であり、その土台となるのが)『自分は自分であっていい』、『ありのままの自分を認めてくれる人がいる』という自己肯定感です。豊かな遊びの世界を次の新しい学びへとつないでいくために、…一人ひとりに自己肯定感を形成することが大切なのです。」(長瀬美子『幼児期の発達と生活・あそび』より)
 このように、幼児教育において重要なのは、ありのままの自分で良い、という自己肯定感を形成することなのです。そしてそれはまた、キリスト教の基本的なメッセージそのままなのです。
 帰園後に副園長にその話をしましたところ、「やっぱり幼児教育は、もともとキリスト教から出たものだから、つながっているのですよ」と言われて、わたしも納得したのです。 そう考えてきますと、これからの時代を担う人間を育てるのが幼児教育であることを認識すると共に、教会もまた、次の世代に向けて果たすべき大きな役割があるのではないか、と思わされました。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)


○ 主日礼拝:日曜日 午前10:30
○ 祈祷会:年間 水曜日 午後 7:30、第一木曜日 午前10:00
○ 教会学校:日曜日 午前9:00 こども科・中高科
○ 求道会:適宜
□ 付属 学校法人 武庫川幼稚園   TEL:0798-67-3002   

牧師:佐藤成美 日本キリスト教団 甲子園教会
〒663-8102 西宮市松並町9-4
TEL:0798-65-7288
FAX:0798-65-7291
福音電話:0798-65-4692
郵便振替:00920-3-123387