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2016年1月3日発行104号
日々の想い(三八)「教会と幼稚園F〜認定こども園とは?〜」

二〇一五年四月から武庫川幼稚園は認定こども園となり、園名も「むこがわ幼稚園」とひらがな表記となりました。(武庫川女子大学付属幼稚園との混同を避ける意味もあります)
 では認定こども園とはどのような施設なのでしょうか。
 幼稚園は文科省のもとにある学校教育法に基づく学校教育機関、保育園とは厚労省のもとにある児童福祉法に基づく社会福祉施設です。しかし認定こども園は、内閣府、文科省、厚労省のもとにあり、子ども・子育て支援法に基づく施設なのです。
 この認定こども園には四つの型がありますが、むこがわ幼稚園はその内の幼稚園型認定こども園ということになります。(その他、幼保連携認定こども園、保育所型認定こども園、地域裁量型認定こども園があります)
 幼稚園型認定こども園というのは、認可幼稚園に保育所機能がついた施設ですから、ひと言で言ってしまえば、幼稚園に保育園が合わさったものということになるのですが、しかし実際には、それ以上の働きをしています。
 まず認定こども園となってそれまでの幼稚園と変わった点のひとつに、園と保護者の関係があります。
 これまでならば、保護者が減収となり、保育料が払えなくなった場合、園児はやむをえず退園ということになった訳ですが、しかし、認定こども園では、保護者の収入に応じて市町村が保育料を決定しますので、極端な場合、保育料が0円となることもあるのです。その場合、園に対しては市町村から公定価格の支払いがなされますので、親の状況に左右されず子どもは園に通い続けることが出来るのです。ですからまた、園と保護者の関係性も継続され、しかもそれは、プライバシーにまで踏み込んだこれまで以上に深い関係とならざるを得ないのです。
 また、認定こども園に求められているのは、自園に通うこどもたちの保育・教育だけではありません。地域における子育て支援を、地域の民生委員や町内会等との関わりを深めながら、実施して行かなければならないのです。そのためむこがわ幼稚園でも、月に一回ほど副園長が地域の子育て支援サークルに足を運んで、保育援助の働きを始めています。
 そして更に認定こども園では、園に通う子ども以外の地域の子どもの一時預かり保育も行わなければなりません。学童保育に準じる働きのための場所の提供を求める声も地域から出始めています。
 このように、地域における子育ての一つの拠点となって行くことが、認定こども園には求められているのです。そしてそのためには、保育者の確 保は勿論のこと、様々な働きに対応するための教室等の施設の拡充もまた必要となってくることでしょう。
 以上述べてきましたように、認定こども園となったことで、むこがわ幼稚園では、子どもを中心とした保護者との関わり、地域との関わりがますます深まって行く状況にあります。そしてこのことは、地域に根差す宣教を展開するために幼稚園を設けた甲子園教会の、その本来の意図にも合致するものだと思われます。
 認定こども園としての幼稚園の働き、それはただ単に信者を増やすための伝道ということではなくて、地域に住む人たちと出会い、関係性を築いて行くための宣教の働きなのです。  新しく与えられた認定こども園というツールを、しっかりと宣教の業に用いることが出来ればと願っています。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)


2016年2月7日発行105号
日々の想い(三九)「教会と幼稚園G〜キリスト教保育の心〜」

 「礼拝堂に入ったら静粛に礼拝開始をお待ちください。」
 このような文言を、以前わたしがいた教会の週報に記していました。礼拝が始まる時は私語をやめて、静かにして礼拝を始めましょう、ということです。
 そして、これと同じような言葉を幼稚園で聞くことがあります。「これから礼拝です。皆お口を閉じて、静かにしましょう。」
 礼拝を守るからこどもたちに口を閉じさせ、静かにさせる。 しかし、果たしてそれがキリスト教保育に適ったことなのか、そのことを考えさせられる出来事に出会いました。
 昨年のクリスマス前のことです。クリスマスページェント(イエス・キリストの降誕劇)の初めての練習のために、あるクラスのこどもたちが担任の先生と一緒に礼拝堂に入ってきました。その時にこどもたちは騒ぐこともなく、まさに「静粛に」、心を静めた様子で入ってきたのです。そして練習を始める前に、その担任の先生は、「今からわたしたちは礼拝を献げますが…」とお祈りされたのです。
 それは言ってみれば、これから何度も繰り返すページェントの練習の一つです。でもその先生は、その一回一回の練習を礼拝として神様にささげる思いで臨んでいるのだな、その先生の思いが伝わってきて、わたしも深く心を動かされたのです。
 その練習(礼拝)の後、副園長がこのように言われました。「あのクラスは、礼拝堂に入って来る時から、ちゃんと心の備えが出来ていました。でもそれは、突然言われて出来ることではありません。日頃の保育の積み重ねの中で、礼拝に臨むそのような姿勢がこどもたちに伝えられているからこそ、出来ることなのです。」
 わたしはこの副園長の言葉を聞いた時に、はじめてキリスト教保育の心に触れたような思いがしたのです。
 キリスト教保育とは何なのか、キリスト教の教えや聖書のお話をこどもたちに伝えることなのか、人間の命や自然の命を尊ぶ思いをこどもたちと分かち合うことなのか、イエスが為さったようにこどもたちを愛することなのか。昨年お招きした奥田和弘先生のお話にもありましたように、今、キリスト教保育を巡る様々な思いや考えが渦巻いていて、誰もがはっきりした答えを見いだせないでいます。
 しかし、たとえ様々な答えや方法があったとしても、キリスト教保育の根幹にあるものはただ一つです。それは、神様に対する畏敬の念、つまり、神様を畏れ敬う思いです。
 わたしたちの人間の命を創り、この世界の命すべてを創られた創造者に対する畏れと敬いの思いを持つこと、これがキリスト教保育を成り立たせているのです。
 ですから、保育者自身が命の創り手である神様への畏れや敬いを持っているかどうかが問われて来るのであり、そのことが日々の保育を通してこどもたちに伝わり、どのような姿勢で礼拝を守るのかにも表れてくるのです。
 ひるがえって、教会ではどうでしょうか。礼拝前は静粛に、私語をつつしみましょう、それが礼拝を守る姿勢です、それをいちいち言わなければならないのだとしたらどうでしょうか。
 神への畏れと敬いの思いを持って、頭を垂れて、主の日ごとの礼拝を献げる者でありたいのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

2016年3月6日発行106号
日々の想い(四〇)「教会と幼稚園H〜命の源泉としての礼拝〜」

 ある日のこどもの礼拝での出来事です。この頃、よくこどもの礼拝に来るようになった幼稚園に通うY君とそのお母さんが、わたしの少し前に座って礼拝を守っていました。
 いつものように讃美歌を歌い、主の祈りをささげて、お祈りの時となりました。すると、そのY君のお母さんは静かに頭を垂れて、すっと手を組んで祈りの姿勢をとられたのです。
 その時にわたしは、はっとさせられる思いでした。この人はこの礼拝に何かを感じている、わたしにはそう思われたのです。
 勿論これはわたしの勝手な思い込みかもしれません。しかし、日常生活の中にはない何かが礼拝の中にあり、それをこのお母さんが感じ取って、それが自ずとその姿に表れた、それはそう思わせるにふさわしい祈りの姿だったのです。
 礼拝とは一体どんなものでしょうか。  礼拝とは、ある意味で、人間が作り出しているものです。祈るのも人間であれば、讃美歌を歌うのも人間です。説教をする牧師も人間であれば、司会をする役員も人間です。そしてまた、どのような礼拝を守るのか、その式順をはじめ内容を準備しているのも人間なのです。
 ですから、やりようによっては過剰な演出というのでしょうか、礼拝に集まっている人々に、神々しい厳かな雰囲気を感じさせるような礼拝堂を作ることも出来ますし、それに適った礼拝式を準備することも出来るのです。そして人は、そのような目に見えるものに心を奪われやすいものです。
 しかし、礼拝の本質はそこにはありません。いくら人間ががんばって準備をしても、作り出せないものが礼拝にはあるのです。そしてそれが、礼拝を礼拝たらしめているのです。
 この礼拝を礼拝たらしめているもののことを、教会用語で「聖霊」と言います。聖霊は、神様から出る力です。
 しかし、この神様の力は誰でも気づく派手なものではありません。それは人目につかない、ちょろちょろと湧き出る泉のようなものです。ですから多くの人たちは、礼拝に与っていながら、その命の泉に気付かないことが多いのです。
 温泉というのは、ひとつの源泉さえ掘り当てれば、そこから多くの温泉施設を作ることが出来るものです。
 教会と幼稚園もそれと同じです。礼拝から湧き出る源泉が教会と幼稚園を成り立たせているのです。
 ですから教会は、毎日曜ごとの礼拝において、その命の泉から汲み出し飲むことによって、これまでその歩みを続けることが出来たのですし、幼稚園はその教会の礼拝から流れ出す力に支えられて、今日までそのキリスト教保育を続けてくることが出来たのです。
 礼拝、それが教会、幼稚園にとっての命の源です。
 あのY君のお母さんのように、教会も幼稚園も共に、礼拝から流れ出しているその命の泉から汲み出して飲む、そのような群れでありたいのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

2016年4月3日発行107号
日々の想い(四一)「教会と幼稚園I〜こどもと神の国〜」

 いよいよ四月となり、教会も幼稚園も新しい年度の歩みが始まりました。
 わたしの園長としての歩みも二年目となりますが、この一年間、幼稚園で過ごしてみて、改めて感じさせられたことがあります。それは、自分のところに近づいて来るこどもを見て「神の国はこのような者たちのものである」と言われた、イエスの言葉の正しさです。
 世界で初めて幼稚園を始めたとされるフレーベルもまた、こどもは大人よりも神様に近い、と語っています。彼もまた、このイエスの言葉の正しさを痛感していたのでしょう。
 ですから、そのような思いで、こどもたちの園生活を見ていると、感動させられることの連続です。幼稚園は神の国に近い、そう思えることもしばしばです。
 毎年年度末になると、むこがわ幼稚園では「ホップ・ステップ・ジャンプ」という一年の締めくくりの発表会があります。各クラス、こどもと保育者がよく話し合って、それぞれの出し物が決まります。
昨年、あるクラスで演じられたのは、絵本『図書館ライオン』に基づくお話でした。
 本来、動物が来てはいけない図書館に、ライオンがやって来ます。ライオンは、本とこどもたちが大好きで、お掃除も手伝います。図書館の係の人の中には気に食わない人もいましたが、館長も、そしてこどもたちも、図書館にライオンが来ることは大歓迎でした。
 ただし、図書館の中で「走ってはいけない」、「大きな声を出してはいけない」、これはライオンも絶対やぶってはいけない規則でした。
 ある日のこと、図書館の係の人が本を取ろうとして、はしごから落ちてしまいます。そして、その人が倒れているのを見つけたライオンは、規則をやぶってはいけないことを知りながらも、大きな声で助けを呼び、その人を抱えて図書館を走ります。そうやってライオンは、図書館の規則を破ってしまったのです。そしてライオンは、それを最後に図書館からその姿を消してしまうのです。
 劇の最後にこどもたちがこう語ります。「図書館の規則は破ってはいけない。でも規則よりもっともっと大切なものがあるんだ。そしてライオンは、それを守ったんだ」
 こどもたちが心を込めて語るそのせりふは、聖書の言葉と同じような重さを持って、わたしの心に深くしみいりました。
 また、ある別のクラスの発表では、ディズニーさながらのミュージカル「アラジン」が演じられました。
 こどもたちは大人顔負けに、歌って踊っての熱演でした。そんな中、いつも練習で、動き出したい自分の衝動を抑えられないA君がいました。
 練習を重ねるごとに劇は完成に近づいて行きましたが、A君だけは劇に集中できません。A君がちゃんと演じることが出来るのか、それが見守る先生たちの不安でした。
 しかし、そのような先生たちの心配は、見事稀有に終わりました。本番当日、A君は、本当に粘り強く自分の役を演じ切ったのです。 練習の時からA君につきっきりだったフリーの先生は、そのような彼の姿に思わず涙し、それを見たわたしも思わずもらい泣きしてしまいました。
 こどもたちと共に過ごすことは、神の国を生きることです。 この一年もこどもたちと感動を分かち合いながら、歩みたいと思います。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

2016年6月5日発行109号
聖書随想(二〇)「ヘブライ語聖書をめぐる問い@〜教会の場合〜」

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」

〈ヨハネによる福音書五章三九節〉

 ヘブライ語聖書(旧約聖書)をどのように捉えるのか、これが長年にわたるキリスト教の大きな課題でした。なぜならば、これを正典とするユダヤ教とそこに記された律法を超克したところに成立したのがキリスト教である、と教会では考えられて来たからです。  では、もしそうであるとするならば、一体なぜキリスト教がヘブライ語聖書を持つ必要があるのでしょうか。新約聖書だけで充分なのではないでしょうか。 このように考えたのが二世紀に現れたマルキオンです。 マルキオンは、ヘブライ語聖書に記された神(創造神、律法神)は、怒り、嫉妬する不完全な神であり、イエスの示した慈しみの神とは異なると考えました。そして彼は、ルカ福音書とパウロの手紙を中心とした独自の正典を編纂しながら、ヘブライ語聖書は不要であると唱えたのです。 しかし、そのようなマルキオンの考えは、教会では異端として退けられ、ヘブライ語聖書はキリスト教の正典と認められ続けました。(マルキオンが異端とされたのは、イエス・キリストがまことの人であり、まことの神であることを否定する仮現論を唱えたためでもありました。)  では、教会の人々はどのようにしてユダヤ教の正典でもあるヘブライ語聖書をキリスト教の中に取り込んだのでしょうか。  そのひとつの例が、「聖書はわたしについて証しするもの」という、前述のイエスの言葉です。 これはイエス自身が語った言葉というよりは、イエスの口を借りて福音書記者ヨハネとその教会が語ったものと考えられますが、ここに語られている通り、ヨハネの教会の人々はヘブライ語聖書を、イエス・キリストを証しする書物として受け取ったのです。 では、ヘブライ語聖書がイエス・キリストを証しするとはどういうことでしょうか。例えばイザヤ書にこのような言葉があります。 「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」(イザヤ書五三章四-五節) これは「苦難の僕」と呼ばれる一連の言葉ですが、教会はこれをイエス・キリストの出来事を預言する言葉として、受け入れたのです。 このように、ヨハネの教会を含む初代教会は、ヘブライ語聖書の言葉を様々に引用しながら、これをイエス・キリストにまつわる様々な出来事に当てはめました。(例えば、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言の言葉が、母マリアの懐妊とイエス出産に当てはめられました。) そこには、文脈を無視した強引な引用もあり、ユダヤ教からは厳しい批判を受けたのですが、しかし、教会はそれにひるむことなく、かえってそのユダヤ教に対する反駁として、ヘブライ語聖書をイエス・キリストを預言するものと解釈し、キリスト教の正典の座に据え続けたのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

2016年7月3日発行110号
聖書随想(二〇)「ヘブライ語聖書をめぐる問いA〜教会の場合2〜」

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

〈マタイ福音書一六章四節〉

 先月の甲子園福音では、教会がヘブライ語聖書をイエス・キリストを預言する書物と解釈して、教会に取り込んでいった話を書きました。  しかし教会は、単に言葉による「預言」としてだけ、ヘブライ語聖書を受け入れたのではありません。教会は、そこに記されているお話そのものが、イエス・キリストの出来事を指し示していると理解したのです。  ヘブライ語聖書のお話をイエス・キリストの出来事を予表するものとして理解すること、これを「予型論的解釈」と呼びます。そして、この予型論的解釈の最も有名なものが、冒頭の聖書の言葉です。 ここでは、預言者ヨナの出来事がイエス・キリストの復活を表すものとして理解されています。なぜならヨナは三日三晩、大魚の腹の中で過ごし、その後大地に吐き出されたからです。そしてそれが、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に復活したイエス・キリストの出来事を表していると理解されたのです。  もう一つ、新約聖書に書かれているヘブライ語聖書のお話としては、ヨハネ福音書のこういう言葉があります。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」  これはどんなお話かと言いますと、かつて荒れ野でイスラエルの民が神に不満を言った時、怒った神は炎の蛇を送り込み、多くの人が咬まれて死んだのです。しかし、神に命じられたモーセは青銅の蛇を作り、それを旗竿の先に掲げたところ、その青銅の蛇を見た人々は、炎の蛇に咬まれても死ななかったのです。  このように、かつてモーセが掲げた青銅の蛇が人々を死から救い出したように、十字架に上げられたイエスが多くの人々に永遠の命を与え、死の滅びから救い出す、というのです。つまり、青銅の蛇はイエスの十字架による救いを予型するものだった、ということです。  この他にも、アブラハムによるイサク奉献の物語が、父なる神によってこの世に献げられる独り子イエス・キリストの出来事の予型とされたり、モーセによる紅海渡渉も死と復活の予型とされたのです。  このように、かつての教会の人々はヘブライ語聖書の言葉そのものと共に、その物語の中にもイエス・キリストの出来事を見い出そうとしたのです。  そして、このような予型論的なヘブライ語聖書の解釈は、決して古びたものではなく、現代においても十分に通用するものなのです。 例えば、前述の紅海渡渉の話には、神が無条件にイスラエルの民を救うという「恵みの先行」が見られますが、これはイエス・キリストの救いにも通じるものです。つまり、紅海渡渉はキリストの救いの先取り(予型)である、ということです。  「旧約聖書の中には新約聖書がある」、よく言われるこの言葉の確かさを思わせられるのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

○ 主日礼拝:日曜日 午前10:30
○ 祈祷会:年間 水曜日 午後 7:30、第一木曜日 午前10:00
○ 教会学校:日曜日 午前9:00 こども科・中高科
○ 求道会:適宜
□ 付属 学校法人 武庫川幼稚園   TEL:0798-67-3002   

牧師:佐藤成美 日本キリスト教団 甲子園教会
〒663-8102 西宮市松並町9-4
TEL:0798-65-7288
FAX:0798-65-7291
福音電話:0798-65-4692
郵便振替:00920-3-123387