あの十六世紀のルネサンス黄金期、ローマにその最後の居を構えたミケランジェロが賞賛し、日々鑑賞したと伝えられているのが、トラヤヌス帝の円柱です。
この円柱には、紀元2世紀のダキア戦役の様子が見事な浮彫によって描かれていたのです。
しかし実は、ミケランジェロが見たのは、その塔の全容ではありませんでした。
なぜならその当時、塔の半分以上はまだ地中に埋もれていたからです。
このように、ローマという町においては、歴史は地下にあります。
ですから歴史を尋ね求めるために、人々は今もその発掘を続けている訳です。
そしてそのような、地を掘り歴史を尋ね求めるという行為は、聖書を読み解くという行為とそっくりです。
聖書に描かれていること、それは人間の歴史です。ただし、聖書にある諸文書が書かれた時代には、まだ「歴史」という観念はありませんでした。
彼らが為そうとしたこと、それは歴史を記すことではなく、祖先より語り継がれて来た様々な物語を、今の自分たちへのメッセージとして受け取ろうとすることでした。
神様がいかに自分達の先祖に働きかけ、これを救ったのか、或いはまた、神様がいかに自分達の先祖に怒り、これを裁いたのか、そのような過去から伝わる物語を、彼らは、今を生きる自分達の姿に当てはめ、今の自分達へのメッセージとして受け止めようとしたのです。
このように、聖書の中には二重の歴史が隠されています。語り継がれて来た物語の背後にある歴史と、その物語を自分達への言葉として受け取った人々の歴史という二つです。
例えば、有名な「ノアの箱舟」の物語があります。
恐らくあの物語は、古代から世界各地に伝わる洪水伝説に基づくものであり、ユダヤ人はその伝説を、捕らわれの地である異国バビロニアで知ったのです。
しかし彼らはその洪水伝説を、ただの伝説として聞くのではなく、祖国を滅ぼされ、異国の地で捕囚民となっている現在の自分達の姿に重ねてみたのです。
そうすることによって彼らは、なぜ自分達の祖国は滅ぼされたのか、そして、それでもなぜ、今自分達はここに生き残っているのかを考え、それは自分たち民族への神様の裁きであり、しかし同時に自分たちへの神様の憐みと選びがあったからだと理解し、それを神様からのメッセージとして受け取ろうとしたのです。
ですから彼らにとって、箱舟に乗って救われたノアの一家は、祖国滅亡から生き残った自分たち自身の姿でもあった訳です。
このようにして、聖書に記されている物語そのものの歴史と共に、その物語を受け取った人々の歴史を知る時に、わたしたちは聖書の言葉が語ろうとしている意味を、本当に受け取ることが出来るのです。
そしてその時にまた、その聖書の言葉が、今を生きているわたしたちへのメッセージとなって響いて来るのです。
聖書を掘り下げ、そのメッセージを聞き取る、その地道な歩みを続けて行きたいと願っております。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)