2018年7月 福音のメッセージ「今日、耳日曜」

昔はやった「今日、耳日曜」という言葉、これは教会的に考えると、なかなか辛い言葉です。
と申しますのも、教会で礼拝を守った後に信徒の方から、「今日、耳日曜でした」と言われたら、説教を語った牧師はがっくり来るからです。

しかしとは言いながら、そう思って聖書を読んでみますと、聖書の中にも「今日、耳日曜」と言っている人がたくさんいることに気付かされます。
ではなぜ彼らは、「今日、耳日曜」と言って、語られる神様の言葉を聞こうとしないのでしょうか。

その理由のひとつは、語られる神様の言葉が、時にはとても厳しいものだったからです。だから、それを聞いた人たちは、自分達の罪が責められているように思って、その耳を閉ざしてしまったのです。

そしてもうひとつ、彼らが神様の言葉を聞かなかった理由としてあげられるのが、神様の言葉を語る人の資格の問題です。

例えば、旧約聖書に出て来るアモスという預言者は、その当時いた「宮廷預言者」という、いわばプロの預言者とは違って、家畜を飼い、いちじく桑を栽培する農牧の人でした。そのためアモスは、聖所に仕える祭司によって「幻を見る者」とされて、国外に追放されるのです。

そして、このようなアモスの姿は、後にやって来るイエスを予表するものでした。

イエスもまた、その宣教を始め、故郷のナザレを訪れた時に、村の人たちにこのように言われます。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」

そのようにしてナザレの村の人たちは、神の言葉を語ろうとする「大工」イエスのその資格を問うたのです。

そしてそのようなイエスの足跡を、イエスに従った教会の人たちもたどることになります。
例えば、ローマ帝国の各地で伝道し、キリスト教の礎を築いたと言われる使徒パウロもまた、その資格を疑われたひとりです。

パウロのことを批判する人たちはこう言いました。パウロは偽の使徒である、なぜならパウロは生前のイエスのことを直接には知らないし、何よりパウロが主張するダマスコ途上での復活のイエスとの出会いの経験は、その確かさを保証する証拠が何もないからだ、と。
そうやってパウロは、批判者から「偽の使徒」と呼ばれ、その宣教者としての資格を疑われたのです。

しかし、このような批判の言葉に対して、パウロ自身はこのように答えました。「わたしたちすべては、キリストの裁きの座の前で自分を顕わにされ、それが善いことであれ、悪いことであれ、各々が体で行ったことの報いを受けねばならないからである。」
自分が偽者なのかどうか、神の言葉を語る資格がないのかどうか、そのことは、神様だけがご存知だ、なぜならわたしたち人間は、自分の為したこと、語ったことのすべてを、やがていつか神様によって裁かれるのだから。

このようにパウロは、自分のすべては神様によって知られているのだ、と言うのです。だから自分は人の噂も、人の批判も恐れない。自分が生きるのも死ぬのも、そして福音宣教をするのも、それはただ神様によるものなのだ、そう語ったのです。

わたしたちが恐れるべきもの、それは人ではなく、すべてをご存知の神様だけなのです。だからわたしたちも、先に歩んだ預言者やイエスやパウロのように、この神様によって自由に生き、語り、そして人に仕える、そのような者でありたいと願います。