2019年6月 福音のメッセージ「信仰の勘違い」

(聖書箇所:ダニエル6:10~24、ルカ7:1~10、2テサロニケ3:1~5)

今日のダニエル書のお話はとても有名なお話です。王の勅令に背いて王様以外の神を拝んだダニエルは、獅子の穴に放り込まれてしまいます。しかし、その結果、どうなったかと言いますと、ダニエルは神様を信頼していたから獅子から何の害も受けなかったのだ、とダニエル書は語ります。

こんな話を読むとわたしたちは、「やっぱりダニエルは深くて強い信仰を持っていたのだなあ」と思ってしまいます。

今日のルカ福音書のお話も同じようなお話です。

自分の部下をただ言葉によって癒してください、と願う百人隊長に対して、イエスはこのように言われます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。そして、イエスがこう言われた瞬間に、この百人隊長の部下が癒されたのです。

このように、このお話などを読んでもわたしたちは、この百人隊長の信仰がすごかった(深くて強い)からイエスもこの人の部下を癒されたのだな、と思ってしまうのです。

しかし果たして、信仰に「深い」や「浅い」、「強い」や「弱い」はあるのでしょうか。

新約聖書において「信仰」と翻訳されているギリシア語の「ピスティス」という言葉には、「信頼」という意味があります。つまり、「信仰する」とは「信頼する」ことなのです。

では「信頼する」とは、どういうことでしょうか。

かつてプロ野球の巨人軍に江川卓という投手がいました。この江川が活躍した時代には、「江川タイム」というものがあって、とにかく江川はヒットを打たれない、投げるテンポが早い、ということで、巨人ファンのサラリーマンは、江川の試合を見るためには、午後8時半までに帰宅しなければならなかったのです。

そのようにして江川投手はある時代、巨人ファンから圧倒的な信頼を得ていたのです。江川が投げれば絶対負けない、江川は絶対打たれない、という信頼です。そして当時巨人ファンだったわたしも、江川を絶対的に信頼していました。
しかし、当たり前のことですが、わたしの信頼が深かったから江川が勝つ、という訳ではありませんでした。わたしの信頼が深かろうが、浅かろうが、そんなことには全く関係なく、江川はその江川自身の力によって勝ったのです。
このように「信頼する」とは、わたしの問題ではありません。信頼を受ける相手の側の力が問題なのです。

そして聖書において、ダニエルが神様に信頼していた、百人隊長がイエスに信頼していた、と言われる場合に、意味されていることもまたそういうことなのです。問題なのはダニエルや百人隊長の信頼の深さではなく、その信頼に応える神様やイエス・キリストの力なのです。そして当然、神様もイエス・キリストも、その信頼に応えるだけの力をもっておられた、と聖書は語るのです。

だから宗教改革者のカルヴァンは、こう言ったのです。信仰とはただの空の管に過ぎない、大事なのはその空の管を通ってやって来るイエス・キリスト御自身なのだ、と。

このように、信仰(信頼)とは、人間の信じる力のことではありません。それは空の管、空の器に過ぎないのです。しかし、たとえわたしたちの信仰が浅くもろいものであったとしても、イエス・キリストの愛と救いは、その弱い信仰を通して確かに、わたしたちのうえに働くのです。

(2019.5.26 小野教会における礼拝説教より)