(聖書:創世記45:4-8,マタイ18:23-34,ヤコブ2:12-13)
終末期医療の現場であるホスピスにおいて、入院された人たちが心残りに思うことがあると言います。その中のひとつが、人との和解です。「死ぬ前に、あの人と仲直りしておきたい」、「あの人と和解出来ていないことが心残りだ」、多くの人がそう思われるそうです。
では、どうやったら人は人を赦し、和解することが出来るのでしょうか。
人はその人生において、自分では避けることの出来ない不条理に出会い、そのために怒り、恨み、もう自分の人生に意味はないと嘆くことがあると、精神科医のV・フランクルは言います。
しかし、そのような怒り、嘆く生き方では、人はあの強制収容所のような極限状態を生きぬことは出来ない、なぜならば、人生とは、自分がそこに意味を見いだすものではなく、人生の方がこのわたしに問うているものだからだ、その不条理の中であなたはどう生きるのか、そう人生がわたしに問いかけている、だから不条理の中にあっても、その時、その時を自分で考え、判断しながら生きる、その生そのものに意味がある、というのです。
そしてそのような生き方をフランクルは、「苦しむという仕事」、と表現しました。他の人によって、或いは偶然によって、「わたし」に与えられた避けることの出来ない不条理な「苦しみ」、でもその苦しみに対して、怒り絶望するのではなく、逆にそれを引き受けて生きる、それは、わたしたち人間にとって非常に質の高い「仕事」なのです。そして、今日の創世記に出て来るヨセフもまた、その質の高い仕事を成し遂げたひとりでした。
ヨセフは、かつて兄たちから荒れ野の穴に捨てられたために、エジプト人の奴隷とされ、捕らわれ、長い年月の後にようやくエジプトの執政官になった人です。だから本来ならばヨセフは、自分を捨てた兄たちに対して怒り、恨み、自分の人生に絶望して生きていてもおかしくなかったのです。しかし彼は、その兄たちと再会した時に、これを責めることはせず、その苦しみがわたしに与えられたのは、神がわたしたち一族を救うためだったのです、と語りました。ヨセフは、人生の不条理を引き受け、苦しみながら生きることこそが、神様から与えられた使命だ、と信じていたのです。
このように、怒りを赦しに変えるひとつの方法は、他者から自分に与えられた不条理な「苦しみ」を自分の仕事として引き受けて生きる、つまり、神様からの使命と信じて生きるということです。
しかし、聖書が語っている方法は、それだけではありません。
今日のマタイによる福音書の譬え話にもあるように、わたしたちはそもそも、人を赦す、赦さない、の前に、自分自身が神様や周りの人たちによって途方もない赦しを受けている存在なのです。わたし自身が他者に苦しみを与える存在であるにも関わらず、です。だから、ヤコブ書もこう語ります。「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」
「自由をもたらす律法」とは、キリストの愛のことです。わたしたちは他者に苦しみを与えるような罪深い者であるにも関わらず、イエス・キリストの愛と赦しを受けた者として、神様の裁きの座に立たされるのです。ではその時に神様は、このわたしのことを裁かれるのでしょうか、それとも赦されるのでしょうか。「憐れみは裁きに打ち勝つ」のです。キリストの愛に支えられて、わたしたちは神様から赦される、そしてすでに赦されているのです。だからわたしたちは、赦されて在る者として、他の人をも赦すのです。
「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」、わたしが他者による重荷を背負うように、他者に重荷を背負わせるこのわたしもどうぞ赦されますように、そして何より神様がわたしを赦し、背負い、受け入れてください、これはそういう祈りなのです。
「赦し」があってこそ、はじめてこの「わたし」は他の人と共に、ここに在ることを赦されるのです。神様の赦しを受け取り、赦し、赦されて生きるわたしたちでありましょう。
(2021年9月12日 甲子園教会 佐藤成美牧師礼拝説教より)