2016年3月 日々の想い(40)「教会と幼稚園⑨~命の源泉としての礼拝~」

甲子園福音

2016年3月6日発行 106号

 

日々の想い(四〇)「教会と幼稚園⑨~命の源泉としての礼拝~」

 

ある日のこどもの礼拝での出来事です。この頃、よくこどもの礼拝に来るようになった幼稚園に通うY君とそのお母さんが、わたしの少し前に座って礼拝を守っていました。
いつものように讃美歌を歌い、主の祈りをささげて、お祈りの時となりました。すると、そのY君のお母さんは静かに頭を垂れて、すっと手を組んで祈りの姿勢をとられたのです。
その時にわたしは、はっとさせられる思いでした。この人はこの礼拝に何かを感じている、わたしにはそう思われたのです。
勿論これはわたしの勝手な思い込みかもしれません。しかし、日常生活の中にはない何かが礼拝の中にあり、それをこのお母さんが感じ取って、それが自ずとその姿に表れた、それはそう思わせるにふさわしい祈りの姿だったのです。

礼拝とは一体どんなものでしょうか。
礼拝とは、ある意味で、人間が作り出しているものです。祈るのも人間であれば、讃美歌を歌うのも人間です。説教をする牧師も人間であれば、司会をする役員も人間です。そしてまた、どのような礼拝を守るのか、その式順をはじめ内容を準備しているのも人間なのです。

ですから、やりようによっては過剰な演出というのでしょうか、礼拝に集まっている人々に、神々しい厳かな雰囲気を感じさせるような礼拝堂を作ることも出来ますし、それに適った礼拝式を準備することも出来るのです。そして人は、そのような目に見えるものに心を奪われやすいものです。

しかし、礼拝の本質はそこにはありません。いくら人間ががんばって準備をしても、作り出せないものが礼拝にはあるのです。そしてそれが、礼拝を礼拝たらしめているのです。
この礼拝を礼拝たらしめているもののことを、教会用語で「聖霊」と言います。聖霊は、神様から出る力です。
しかし、この神様の力は誰でも気づく派手なものではありません。それは人目につかない、ちょろちょろと湧き出る泉のようなものです。ですから多くの人たちは、礼拝に与っていながら、その命の泉に気付かないことが多いのです。

温泉というのは、ひとつの源泉さえ掘り当てれば、そこから多くの温泉施設を作ることが出来るものです。
教会と幼稚園もそれと同じです。礼拝から湧き出る源泉が教会と幼稚園を成り立たせているのです。

ですから教会は、毎日曜ごとの礼拝において、その命の泉から汲み出し飲むことによって、これまでその歩みを続けることが出来たのですし、幼稚園はその教会の礼拝から流れ出す力に支えられて、今日までそのキリスト教保育を続けてくることが出来たのです。

礼拝、それが教会、幼稚園にとっての命の源です。
あのY君のお母さんのように、教会も幼稚園も共に、礼拝から流れ出しているその命の泉から汲み出して飲む、そのような群れでありたいのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)

三月の礼拝・行事予定
○教会総会    三月二〇日(日)礼拝後
○最後の晩餐夕拝 三月二四日(木)午後七時三〇分
○イースター礼拝 三月二八日(日)午前一〇時三〇分