甲子園福音
2017年10月1日発行 125号
日々の想い(四七)「救いの確かさ(確証)について」②

もし「神の救い」というものがあるならば、自分が神に救われていることをはっきりと知りたい、救いの確証を持ちたい、そう思うのが人間の情かもしれません。
先月号では、そのようなことを考えた人たちとして、スイスの宗教改革者カルヴァンの教説「二重予定説」を受け入れた人たちのことを書きましたが、今回は舞台をイギリスに移します。
一七三八年五月二日の午後八時四五分、ロンドン・アルダースゲート街におけるモラヴィア派の集会において、ジョン・ウェスレーは回心の体験をします。ルターが書いた「ロマ書の序文」を聞いている時であった、と言われています。
「キリストへの信仰を通して神が心に及ぼして下さる変化についてのべられている間、心が不思議に篤くなるのを感じた。キリストを心から信じていることを覚えたのである。…キリストは…私のような者の罪さえ取り去られ、罪と死の法則から私をお救いになられた」、そうやってウェスレーは救いの確信(確証)を与えられたのです。
このようなジョン・ウェスレーの回心の出来事は、彼が精力的に行った野外説教によって多くの人たちの心をつかみ、多数の回心者を生み出しました。そして、当時停滞していたロンドンやイギリス全土のキリスト教に、リヴァイバル(信仰復興運動)の風を吹き込んだのです。いわゆる「メソジスト派」の誕生でした。
しかし、このようなウェスレーの回心についての教えは、「良き実」を結んだだけではありませんでした。彼の教えを聞いた人たちの中からは、「毒麦」とウェスレーが呼んだ「熱狂主義者」たちが表れて来たのです。
そして、ウェスレーの懸念を他所に、熱狂主義者たちは、ある種の霊的体験と言える「回心」に加えて、自分自身の勝手な想像を神からの示しと捉え、自分は回心を体験し、すでに救われているのだからもう決して死ぬことはない、自分はもう決して誘惑には陥らない、自分には預言する力が与えられた、自分には神の霊の働きを悟る力が与えられた等々のことを周囲の人々に語り、これを誇るようになったのです。
霊的な体験をした人々がこのような熱狂主義に陥る有り様は、初代教会の時代からすでに見られるものです。パウロの手紙にも、そのような人たちとパウロとの闘いの様子が記されています。
しかしではなぜ、自分自身の救いの確証を得るための霊的体験(=回心の体験)が、熱狂主義者に見られるような霊的傲慢につながるのでしょうか。
それは恐らく、救われている確証を求めること自体が、信仰の自己目的化につながっているからなのです。
何のために自分は神を信じ、イエス・キリストを信じるのか、それは自分が救われたいがためである、だからこそまた、その救いの確証を求めるのは当然のことである、そのような信仰の在り方は、結局、神を自分の(救いの)ために用いることであり、神のためにではなく、自分のために神を信仰していることにつながります。そして、このような信仰の在り方を、教会では「偶像礼拝」と呼んできたのです。
ジョン・ウェスレーが語るような回心の体験は、頭から否定されるべきものではないのでしょう。しかし、とは言いながら、そのような経験ばかりを追い求めることは、神を自分のために用いる「偶像礼拝」につながり兼ねないことを、わたしたちは心に留めておかねばならないのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)