甲子園福音
2018年4月1日発行 131号 その2
「闇を抱いて」(3月25日礼拝説教より)
昨年、遠藤周作さんが描いた『沈黙』が映画化されて、話題になりました。そのお話には、江戸時代、キリシタン禁制の中で、厳しい拷問の末に信仰を捨てる「転び伴天連」が出て来ますが、転んだ彼らの姿は残酷なほどに惨めなのです。
この世の圧倒的な暴力に屈した、その信仰者のみじめな弱い姿の一体どこに救いがあるのか、そこに一体何の意味があるのか、それを考えることが、十字架のイエスを理解するための一つの手がかりになるように思うのです。
旧約聖書のイザヤ書には「苦難の僕」と呼ばれる一連の預言の言葉が出てきます。そしてキリスト教会は、古くからこれをキリストの受難(十字架の死)を預言したものと理解してきました。しかしそれは本当に、イエス・キリストの受難の出来事にぴったりと当てはまる預言なのでしょうか。
イザヤ書五〇章にはこのように書かれています。「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さず、に、嘲りと唾を受けた。…わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。…わたしの正しさを認める方は近くにいます。…われわれは共に立とう」
このように、「苦難の僕」は、何らかの理由で周囲の人から嘲りと迫害を受けながら、しかしそれでも自分は辱められはしない、なぜならば、自分のことを認めてくれる神様が共におられるからだ、と語るのです。
このように、「苦難の僕」は、たとえ人は見捨てても、神様は自分を決して見捨てない、そう信じていたのです。
では、そのような「苦難の僕」に比べて、十字架の死を前にしたイエスの姿はどのようなものだったのでしょうか。
あの有名なゲッセマネの祈りの場面において、イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」た、と福音書は記しています。「恐れてもだえる」とは、「驚いて困惑した」という意味です。イエスは十字架の死を前にして、神様に愛されているはずの自分がなぜ苦しみを受けなければならないのか、そのことに驚き、困惑したのです。しかし同時にまたイエスは、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とも祈りました。
そうやってイエスは、まさに「苦難の僕」のように、たとえ苦しみを受けたとしても、それでも自分は辱められない、なぜなら神様が自分と共にいてくださるからだ、そう信じようとしたのかもしれません。
しかし、そのようなイエスの神様への信頼は、あの十字架のうえでもろくも崩れ去りました。イエスは息を引き取る前に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、神様に対する絶望の叫びをあげたのです。そのイエスの姿は、信仰者の「愚かさ」の極みであり、残酷なほどにみじめでした。
そうやってイエスは、いわば人間の闇の中に入って行かれたのです。「闇の中に入る」ということは、心に光を抱いてそこに入って行くということではありません。イエス自身が光を失い、闇に飲まれ、闇の一部となってしまった、ということです。
このような十字架のイエスの、残酷なまでにみじめな姿によって、一体誰が救われるのでしょうか。
わたしたちの世界には、たとえ信仰を持っていても、いくら誠実に生きていても、それでも、故のない苦しみと辱めを受け、暴力に屈し、神様に絶望して生きざるを得ない人たちがいるのです。「信仰を持っているから守られます」「救われます」ということではなくて、その全く逆のような、辱めのただなかに立たされる人が、かつてもいたし、今もいるということです。
だからイエスは、あの十字架のうえで、外的にも内的にも辱めを受けたのです。そうやって神様は、あの十字架のイエス・キリストを、この世のすべての人々の、その闇の内に、苦しみの内に、弱さの内に、立たせられたのです。だから、この世にイエスの知らない闇はありません。イエスはわたしたちの闇を抱いたのです。そしてイエスが闇を抱いてくださったから、闇はすでに闇ではなく、光となっているのです。
わたしたち人間の闇の内にこそ、十字架のイエス・キリストは立っていてくださいます。闇を抱いて光となした、その十字架のイエス・キリストの出来事に宿る、深い神様の恵みに感謝いたします。