聖書箇所:サムエル上17:38~50、マルコ9:14~29、第二コリント6:1~10
今日のマルコ福音書のお話でイエスはこう言われます、「信じる者には何でもできる」と。
ではこの「信じる者には何でもできる」とは、どういう意味なのでしょうか。それは、神様がドラえもんのようになって、「あんなこと、こんなことができたらいいのに」という信者の願いを適えてくれるということなのでしょうか。
今日のマルコ福音書の物語では、その後イエスが「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と答えた父親の息子から悪霊を追い出しますから、文脈からいうならば「信じる者には何でもできる」というのは、信じる者には奇跡が起こる、ということになるわけです。
ところがここで問題になるのが、聖書における奇跡物語の意味なのです。
聖書の奇跡物語は、「信じたら、このような奇跡があなたにも起こりますよ」ということを言うために書かれたものではありません。そうではなくてそれは、目には見えない信仰的な現実が確かにあることを人々に教えるために書かれたのです。
目には見えない信仰的な現実は確かにあって、それを心の目で見た時に、その目には見えない現実がわたしたちを取り巻く現実の苦難に打ち勝つのだ、そのことを奇跡物語は語っているのです。
そのことを使徒パウロもこのように書いています。「わたしたちはどの点においても人に躓く機会を与えず、かえって神の奉仕者として、すべてにおいて自分自身の実を示している。…欺瞞的な者でありながら、同時に信実な者として、知られていない者でありながら、同時に知られている者として、死ぬ者でありながら、見よ、生きている者として、罰せられている者でありながら、しかし喜んでいる者として、貧しい者でありながら、しかし多くの人を富ませる者として、何も持たない者でありながら、同時にすべてを所有している者として。」
ここには、パウロが直面している目に見える現実と目に見えない信仰的な現実が並行して書かれています。
現実的に言うならば、パウロは人から嘘つきと呼ばれ、その働きも人には知られず、その状況の中をパウロはいつも自分の死を意識しつつ旅をし、時には獄に投じられ、鞭うたれ、財産と呼べるようなものも何も持っていないのです。
しかし、そういうパウロには同時に、目には見えない信仰の現実、神様の現実があるというのです。
つまり、神様の目から見るならば、パウロは嘘つきなどではなく、神様の召しに誠実に答えて歩んでいる者であり、その働きも人の目には小さくても神様にはよく知られており、たとえ命の危険にさらされている時であっても、神様はそのパウロにいつも新しい命の希望を与えてくださっている、というのです。
だからパウロは、目に見える現実がどんなに厳しくても、その目には見えない神様の現実を喜び、心の内に人々を富ませる豊かな神様の愛を宿し、自分はすべてのものを神様と共有している、と語ることが出来たのです。
信じたら奇跡が起こって目の前の現実が変わる、というようなことではなくて、目に見える現実は変わらなくても、そこには確かに見えない神様の恵みの現実があり、それが信じる者にとって、どんな現実にも打ち勝つ力となる、そのことを冒頭のイエスの言葉は伝えようとしていたのです。
(7月8日 甲子園教会礼拝説教より)