2018年9月 福音のメッセージ「愛の貯金通帳」牧師 佐藤成美

(聖書箇所:ホセア11:1~9、マルコ12:28~34、第一コリント12:27~13:13)

キャッシュレス社会の到来、ということをよく耳にします。わたしなどはアナログ人間なので、そうなってくるとお金というのが一体どこにあるのかと心配になるのです。

しかし、かく言うわたしであっても、通帳に記載されているお金があるということは、現物を見なくても当然信じています。それは、お金というものが社会の信用のうえに成り立ち、運用されているからです。

では「神様の愛」はどうでしょうか。聖書によれば、わたしたちに対する神様の愛は確かにそこにあるものです。つまり、わたしたち一人ひとりは、豊かな神様の愛が蓄えられた「貯金通帳」のようなものを、皆持たされている、というのです。

ではわたしたちは、その社会的には信用のない(?)、目には見えない神様の愛を信じることが出来るのでしょうか。

旧約聖書のホセア書に出て来る「愛」という言葉は、ヘブライ語で「ヘセド」と言います。「ヘセド」とは、人間的な情愛に加えて、愛する責任を伴った愛のことです。

ですから神様は、自分のことを裏切り、他の神々を拝むイスラエルの民に怒りを燃やしながらも、このように語ります。
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」

神様は、自分を裏切りながら、しかしかつて愛したイスラエルの民をどうしても見捨てることが出来ません。その「心を激しく動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と言われるのです。

この神の愛、ヘセドを体現した方、それがイエス・キリストです。そして、そのイエス・キリストの愛について、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一でこのように書きました。

「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に求めなさい。…愛は忍耐強い。愛は情け深い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」

このようにパウロは、自分に対するキリストの愛について述べながら、このキリストの愛は神様からの最も大きな賜物、贈り物だ、と言ったのです。
では、なぜパウロは、このキリストの愛を「最も大きな賜物」と表現したのでしょうか。それはパウロが、自分自身の内には愛がない、ということをよく知っていたからです。

わたしたち人間は、自分に甘く他人には厳しいものです。だから人には愛することを求めるものです。

しかし、「愛」とは抽象的な概念ではなくて、具体的な関係性の中にしか存在しません。つまり、わたしにとっての「愛」とは、わたしと誰かという、その具体的な関係の中にしか存在しないのです。

だから、愛に関して問われているのは、いつも「わたし」です。人のことではなくて、あなた自身はどうなのか、あなたは愛せるのか、あなたは赦せるのか、そう自分自身に問われているのです。

そして、「あなたは愛しているか」と問われた時に、もしそこで人を愛せない自分を見つけたとするならば、まさにそういう愛のない「あなた」をイエス・キリストが愛してくださっている、その愛のないあなたを、それでもキリストは忍耐し、情けをかけ、恨まない、たとえあなたが期待にそえなくても、それでもキリストはそのあなたを忍び、あなたを信じ、あなたに希望を持ってくださる、そうやってキリストは、あなたの全てを耐えてくださる、そしてこの愛のない「あなた」=「わたし」に対するキリストの愛、ヘセドは決して滅びない、そうパウロは語っているのです。

だから愛とは、わたしがそれを「出来る」とか「出来ない」という類いのものではありません。愛は、愛されることによってはじめてわたしたちに与えられるのです。

だからこそ、イエス・キリストの愛は、神様からの最高の賜物なのです。わたしたちが神を愛し人を愛し、愛に生きるためには、キリストの愛が必要なのです。

愛のないわたしたちを、それでも愛するイエス・キリストの愛をしっかりといただいて、愛に生きるわたしたちでありたいのです。
(八月二六日 甲子園教会礼拝説教より)