福音のメッセージ「おまえの罪を数えろ!」

 なぜイエスは殺されたのでしょうか。

 ゲッセマネの園で逮捕され、当時のユダヤ社会の最高機関であるサンヘドリン(最高法院)で裁判にかけられたイエスは、自称「神の子」「メシア(救い主)」と断定され、神を冒涜した罪で、死刑の権限を持つローマ総督ピラトの手にゆだねられました。

 そして、その総督ピラトによる尋問の場面でイエスは、最高法院の議員たちによって政治犯として訴えられ、結局は、ローマの死刑方法である十字架刑で殺されてしまいます。

 しかしその死刑執行の場面において、ローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。

 この百人隊長が言った「正しい」とは、ただ単に「罪を犯していない」ということではありません。それは、「この人は神様の目に正しい方」、「神様に義と認められた方」ということです。このように、最後の時まで神様に信頼し、自分をゆだねたイエスの姿が、ローマの百人隊長の心を打ったのです。

 ではなぜ、その同じイエスの死の場面を見ながらも、最高法院の議員たちは心を打たれなかったのでしょうか。
 
 その理由は、十字架で死んでゆくイエスに向けられた、彼らの言葉にはっきりと表れています。「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」

 このように最高法院の議員たちが心を動かされなかったのは、イエスが「自分を救う」メシアではなかったからです。

 「自分を救う」とは、自分が神の子であり、メシアであることを人々に示すために自分の力を使うことです。しかしイエスは、十字架の死に至るまで、自分の力を自分のために使って、自分を人に売り込むことを一切しませんでした。

 だから、最高法院の議員たちには、イエスのことが分からなかったのです。なぜなら彼らは、そういうイエスとは正反対の歩みをしてきたからです。彼らにとって大切なことは、自分の「正しさ」を人にアピールし、「あなたは立派な、神様の目に適った人ですね」と評価を受け、自分を満たすことでした。だから彼らには、「自分を救わない」イエスの歩みの意味が分からなかったのです。

 讃美歌二一の五一三番「主は命を」に、「主のためわたしは何を捨てよう」という歌詞が出てきます。 

 「主イエスのために何かを捨てる」とはつまり、「自分を救わない」ということです。そしてそれは、自分を満たさず、他者を満たすということ=「仕える」ということです。
そして「仕える」とは、今自分がやりたいことを置いて、自分のやりたくないことに向かい合うことなのです。

 わたしたちがその人生の途上において、やりたくないこと、出来れば関わりたくないこと、解決困難なことに向かい合う時に、一体どうするべきなのでしょうか。何がわたしたちに求められているのでしょうか。

 それは、わたしたちがイエスのようになって、まさに「神対応」をして問題を解決することではありません。わたしたちがなすべきこと、それは自分にこれまで与えられた知恵や経験などを精一杯生かし、やれるだけのことをやることです。

 結果がどうかは問題ではありません。人があなたのことをどう言おうが、世間がどう言おうが、それも問題ではありません。たとえ人から愚かと言われても、そうやって誠実に、諦めずに、「自分を救わない」でいることです。「仕える」ことです。

 イエス・キリストは、人からその罪を数え上げられても、それでも自分の体面を気にすることなく、仕える道を歩まれました。そしてそのイエスが、自分を満たすのではなくて、仕える者となりなさい、とわたしたちを招いているのです。このイエスの招きに応えるわたしたちでありたいのです。
                    
                                                                                        (二〇一九・四・一四 礼拝説教より)