2020年1月 聖書随想(36)「新年の抱負~初心忘るべからず~」

「イエスはその人に『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ福音書九章六二節)

昨年の暮れ、学生時代からの同窓と忘年会をいたしました。

還暦を目前にしてこれから新しい仕事を始めようとする者、今の仕事を終えた後に何か良いパートの仕事でもないかと尋ねる者など、皆それぞれにその歩むべき人生についてよく考えながら生きていることを知らされ、うれしい気持ちになりました。

とは言いながらまた、「わたし」という人間がその同窓たちと違っているというか、ずれているというか、そんなことにも気づかされた会でした。

わたしの何が違って何がずれているのかをひと言で言うならば、いわゆる「人生設計」というものが正直わたしにはない、ということです。

何歳の頃に自分はこうなって、その時の自分にいくら蓄えがあって等々、そのようなことをほとんど自分が考えていないというか、気にしていない、ということに改めて気づかされました。

そしてそれは、何もわたしだけのことではなく、多くの牧師がそのようなものなのかもしれません。 わたしは三〇歳の時に「召命」(神様の招き)を受け、それまでの家業を捨てて、「献身」(牧師になる歩みをはじめること)しました。ただ、神学部での学びは厳しいもので、わたしの持っていた「召命観」は大きく揺さぶられたのですが。

また、教会で働き出してから後に海外留学も経験させていただき、その時には、帰国後に大学で宗教主事(チャプレン)として働かないかとのお誘いもいただきました。しかし、神学生時代に牧師になろうとするわたしを経済的に支えてくださった方々の顔を思い出しながら、その話は断りしました。また、わたし自身の縁故の関係で、これまた他の大学で美術史を教えてみないかとの誘いもありましたが、これも断りました。

そのようにして、牧師になってからのわたしの人生の道程にも、何度かの分岐点はあったのですが、しかしなんとかかんとか教会の現場にしがみついて歩んで来ました。

その様な自分の歩みが果たして正しいものであったのかどうか、それは正直分かりません。また、同窓の話を聞いたり、教会関係の知り合いが「偉く」なっている姿を見たりしていると、心が揺さぶられる思いがしないでもありません。ただイエスが言われたように、「鋤に手をかけて後ろを顧みること」は、もはやわたしには出来ないとも思うのです。

そんなことを考えながら、「還暦」という言葉をネットで調べて見ましたら、これが中国発祥のもので、干支と十干の組み合わせが六〇年で一周りすることによるものだと分かりました。つまり、「還暦」とは「生まれて来た時と同じ暦に還ること」(=赤ちゃんに還る)という意味だそうです。

そうなりますと、還暦目前の歳になって、わたしのやるべきこともまた、「初心にかえる」ということになるのでしょう。

そこで初心に立ち返って思うことは(牧師としては月並み?あるいは当然?かもしれませんが)、やはり信仰の道をもっともっと探り、究めてみたいということです。

この数年間、祈祷会で聖書をギリシア語で読むことを続けて来ました。特に使徒パウロの手紙を中心に読んで来ましたが、この頃ようやくパウロという人の実像が自分の内で形になって来たような気がしています。

ただ、パウロを学ぶだけでは十分ではありません。そのパウロが証しした救い主(キリスト)であるイエスという方を、わたしなりにもっと深く知り、この方と真実に出会い、生きて行きたいのです。

そしてそのためには、聖書を学ぶことだけではなく、やはり祈ることが大切だと思っています。なぜなら、祈りこそは、日々イエスと出会い、歩んで行くための入口だからです。

聖書を読んで祈る、この単純素朴なことに心を傾ける、そのような一年であるようにと願っています。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)