2020年2月 福音のメッセージ「神よ、あなたにわたしの気持ちが分かりますか」

(イザヤ40:25~31、1ヨハネ1:14~18、コロサイ1:9~20)
聖書の神様は、「父なる神」と言われます。つまり、神様は人間にとって保護者のような方であって、人が過ちを犯した時にはひどく怒るけれども、同時にこれを決して見捨てない方なのです。

ところが問題は、親が愛する我が子の気持ちをなかなか理解できないように、神様にもわたしたち人間の気持ち全てを理解出来ない、ということです。神様と人の間には、越えられない大きな隔てがあるのです。

今日のヨハネ福音書には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれています。つまり、あのイエス・キリストにおいて、神様が人となることで、神様は人のことを知る方となり、神様と人は通じ合った、と言うのです。つまり、イエス・キリストは、神様と人との隔てを取り除く方なのです。

ではキリストは、一体どのようにしてその隔てを取り除いたのでしょうか。そしてそもそも、神様にも乗り越えられないその「隔て」とは、どのようなものなのでしょうか。

そのことに関して、「スコラ学の父」と呼ばれるカンタベリーのアンセルムスは、有名な『クール・デウス・ホモ』(「神はなぜ人になったのか」)において、こんなことを書いています。

「神様は人間の罪を償う力を持っておられるが、しかし、神様は罪無き方であるから人間の罪を償う責任はない」この言葉ほど、神様と人間の隔たりを適切に表現しているものはありません。

神様は全知全能と言われます。しかしいくら神様が全知全能であったとしても、神様には罪に堕ちた人間の苦しみや悲しみや悩みは分からないのです。知識としては分かるとしても、実感としては分からないのです。神様は罪とは無縁の方。だから、罪を犯してしまい、罪を償わなければならない人間の苦悩は分からない、これが神様と人間の決定的な隔たりです。

しかし、この「決定的な隔たり」について、例えば今日のコロサイの信徒への手紙は、こう書くのです。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」つまり、多くの人々を愛したにも関わらず、「十字架」に架けられ、社会的には「犯罪人」とされ、宗教的にも「神様から呪われた者」とされたこの「神の子」イエス・キリストだけが、「罪」を背負ってしまった人間の、その痛みや苦しみを本当に理解し、共に分かち合うことが出来る、というのです。

そして、それと同時にコロサイの信徒への手紙は、この十字架に架けられたイエス・キリストこそ、神様と人間の和解のしるしだ、と書くのです。なぜならば、人間の父であり母である神様は、「親」として、このキリストの十字架において、「子」である罪深い人間を「裁き」、同時に、これを「赦し愛された」からです。

そうやって、この十字架のイエス・キリストにおいて、神様はその隔たりを超えて、人間の罪の苦しみを知ると共に、罪そのものを取り除かれた、そのようにして今や、このキリストにおいて、神様とわたしたち人間は本当にひとつになった、というのです。

キリスト教とは、十字架のイエス・キリストにおいて神様を見るという宗教です。そしてそのキリストから神様を見た時に、神様と人間との隔てはもはやありません。死や老いや病、そして「罪」による嘆きや苦しみにわたしたちが出会った時にでさえも、わたしたちはもはや二度と、神様から隔てられることはない、神様は、このイエス・キリストにあって、わたしたちとひとつなのです。

この恵みを感謝し味わいつつ、この一年を歩んで行きましょう。
(2020年1月5日 佐藤牧師 礼拝説教より)