2020年2月 日々の想い(67)「『祈ること』について」

早いもので、今年も早やひと月が終わりました。そろそろ新年の抱負も忘れそうな頃ですので、気を引き締めてもう一度、わたし個人の抱負「祈ること」について考えてみたいと思います。

新年に初詣に行かれた方は多いことでしょう。参拝者数をネットで調べてみますと、全国一位は明治神宮で約350万人、関西一位は京都の伏見稲荷で約280万人とのことです。ちなみに西宮神社は初詣が約50万人ですが、十日戎のときは三日で約100万人だそうです。

わたしもこどもの頃はよく連れられて、三宮の生田神社に初詣に行きました。とにかく賽銭を入れて鈴を鳴らして柏手を打つ、それだけのことで、一体何をお祈りしたのか、さっぱり覚えていません。神社にお参りする何百万人もの人は、一体何を祈っているのでしょうか。

実は甲子園教会でも「元旦礼拝」というものを行っています。でも「参拝者」(?)は50名程度です。そして、教会の礼拝というのは「祈り」なのですから、まあ「初詣」に代わるものになるということでしょうか。では、元旦礼拝に来られた方々は、一体何を祈られたのでしょうか。

そのようにしてわたしたち人間は、神社にしても教会にしても、或いは寺にしても、人間の方が出向いて行って、そこで「神仏」のようなものに「祈る」という姿勢を取る訳です。

つまりそれは、こういうことです。「今日わたしは、わざわざ時間を取って、しかも大切なお金を『賽銭』(or『献金』)として献げて、このようにして『神』よ、あなたにお祈りを献げに来ているのです。だからどうぞ、この時、この場所で、わたしの『祈り』を聞いてください。よろしくお願いいたします。」

そのようにして、ある意味謙虚に、わたしの方が出向いて行って、「どうぞお頼み申します」と「神仏」に頭を下げてお願いする、これが「祈り」だと、一般的には思われている訳です。

このようなお祈りの仕方は、それがキリスト教であれなんであれ、実は非常に人間中心の「祈り」になっている、ということに、わたしたちは気づかなければなりません。

そして、もっと厳しい言い方をするならば、これは全く「祈り」と呼べるようなしろものではありません。なぜならそれは、自分の願いを、ひどいときには自分の願望や欲望を満たすために、「神」なるものをわざわざその時、自分の前に呼び出して、これを自分のために使おうとしている、つまり、「神」を自分の僕として使おうとしていることになるからです。

「神」がもし真の神であるならば、それは決してわたしたちの僕にはなりません。神はのび太君にとってのドラえもんではないのです。

では、まことの「祈り」とはどのようなものか。それは、わたしが神に祈る前に、まず神がわたしに与えるものです。神が許し、与えない限り、そもそもわたしは神に祈ることすら出来ないのです。しかしまた、それが真の神である限り、神はわたしに祈るための「祈り心」を与えてくださいます。

なぜならば、もしそれが真の神であるならば、その方は永遠に変わらざるいつも満ち足りている方として、わたしたち人間に近づき、わたしたちの体や心の欠けを満たしたいと願っている方だからです。

そのようにして、まず神の方がわたしたちのために祈っている。わたしたち人間に近づき、わたしたちを神の力で満たしたいと願っている。だからこそ、真の神なる方は、わたしたちに「祈り心」を与え、神を求めるようにと促されるのです。

教会の礼拝の冒頭に「招詞」という部分があります。これは、「神様がわたしたちをこの礼拝に招いてくださった」ということを、覚えるために置かれているものです。

だから礼拝は、「今日は時間があるから、とりあえず行っとこか」とか「久しぶりにあの人に会いに行こか」という人間の都合によって出向いて行くようなものでは全然ない訳です。

神の招きがないならば、何人たりともその日、その時の礼拝にやって来て、祈ることは出来ないのです。(たとえ本人は気づいていないにしても、です。)

どんな宗教であったとしても、それが真の神であるならば、その神が「祈り心」を与えてくださるからこそ祈ることが出来る、どこであっても祈る時にはそのことを心に留めておきたいのです。

 

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)