「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
<マタイによる福音書五章三節>
毎朝武庫川を散歩しながら、駆け抜けて行く陸上部の生徒たちを気持ちよく眺めています。
キャプテンを先頭に、恐らくは学年順か、あるいは実力順で塊となって走り去る一団の後を、また次の一団が追って行きます。
そのような姿を見ながらよく思い出すのは、高校生の頃のわたし自身の姿です。
わたしが属していた部(陸上部ではありません)でも、たまに学外に走りに行きました。
外を走る時に、先頭を行くのは上級生です。上級生はどこをどう走ってゴールに行くのか、それを知っています。しかし下級生であるわたしには、それが分かりません。だから、走っている道がとてつもなく長く、ゴールも遠くに感じられました。
もともと長距離走が嫌いなわたしでしたから、先頭の一団から遅れ、更に次の一団からも遅れて、とうとう最後の2~3人の群れに入る、ということになってしまうわけです。
自分が今どこを走っており、あとどれくらい走ればゴールに着くのか、もしそれを知っていたならば、随分気持ちも楽であったに違いありません。
わたしには、自分がこの先どこをどう走って行くのか、そのゴールに到る見通しが必要だったのです。
そしてそれは、人生の歩みにおいても同じことだ、ということを、先日聖書から教えられました。
聖書の中にこのようなお話が出てきます。
イエス・キリストを信じている人たちが、この世の終わりが来た時に、キリストのもとに行き、このように言ったというのです。
「わたしたちはあなたのお名前によって、預言をしました。悪霊を追い出しました。奇跡も行いました。」
そのようにしてこの人たちは、自分たちがその人生の歩みの中で、キリストの名によって、いかに善い業を積み上げてきたのか、そのことを次々にキリストに披露して見せたのです。
なぜそうしたのかと言いますと、それはこの人たちが、「イエス・キリストを信じて、善いことをたくさんすれば、この人生が終わる時には、きっと天国に入れてもらえるに違いない。」、そのようにゴールへの道を見通していたからです。
ところがキリストは、こう言われました。
「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」
善行を積み上げて天国に入ろうとすることなど言語道断、それは人間の傲慢であり、不法な行為だ、そうキリストは言われたのです。
クリスチャンは品行方正、清く正しく美しく、徳を積んで生きていれば、神様に報いられる、そう思っていた人々の見通しは、こうしてもろくも崩れ去りました。
それならば、一体どんな人々が天国に入ることが出来る、とキリストは言われるのでしょうか。
キリストはこう言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
「心が貧しい」とは、この世の生活に行き悩み、嘆きや悲しみの故に、心や魂が飢え渇いている者のことです。しかし、そのような者たちには天国が与えられる、というのです。
これら二つのお話によって、イエス・キリストは何をわたしたちに語りたかったのでしょうか。それは、「だから、あなた自身が『心の貧しい者』であることを知りなさい」ということです。
「自分は神様の前に善い行いを積み上げることが出来る、立派で正しい人間です」、そう考えて生きるのではなくて、「自分は神様を信じていますが、それでも悩みが尽きません。わたしは弱い者です。どうぞいつもわたしを助けてください」、そうやって自分を誇らず、自分の弱さを認めたうえで、それをそのままキリストに受け止めてもらう生き方、これがキリストの求めておられる生き方なのです。
このようにキリスト教においては、人生の見通しは、人間が自分で立てるものではないのです。なぜなら、人間は自分の力では神様の許に行き着くことは出来ないからです。
心貧しきこの「わたし」が、キリストにまかせ、キリストに背負われながら歩んで行く時に、初めて神様の許に到る道が開かれる、これこそが、わたしたちのもつべき人生の見通しなのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)