(イザヤ40:12-17、ヨハネ福音書14:8-17、Ⅰテモテ6:1-16)
なぜこの宇宙やこの世界は出来たのか、それは突然なのか、偶然なのか、或いはそこには何かの必然性があったのか。そのようなことは、古代の時代から考えられてきたことでした。
そして、そのような宇宙や世界の創造に関わる原理を、古代ギリシアの哲学者は「ロゴス」と呼んだのです。「ロゴス」とは、この宇宙や世界を貫くひとつの「神的」な「原理」「法則」のようなものです。
そのような「ロゴス」概念を取り込んで、ヨハネ福音書はこう書きました。「初めにロゴス(言)があった。ロゴス(言)は神と共にあった。ロゴス(言)は神であった。」古代ギリシア人の言う「ロゴス」は、実は神様だったのだ、そうヨハネは言ったのです。
ところが、ヨハネの証しはそこでは止まりませんでした。ヨハネは更にこのように書きます。「ロゴス(言)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。宇宙の原理である「ロゴス」が体を持って現れたもの、それこそがナザレのイエスだったのだ、そうヨハネは語ったのです。
今日のヨハネ福音書の言葉の中でも、イエスはこのように言われます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」
このように、父なる神様と子なるイエスはひとつであり、ナザレのイエスこそは「ロゴス」である神様の現われなのだ、と言うのです。
ではなぜ宇宙を治める原理である「ロゴス」が、神様を経て、一人の人間であるナザレのイエスに集約されて行くのでしょうか。それは、この宇宙を貫く原理は「愛」なのだ、とヨハネが信じたからです。
愛こそがこの宇宙を、この世界を貫き、支配している原理なのだ、なぜなら神様はこの天地万物を創られた時に、愛をこめてこれを創られたからだ、そして、その万物に込められた神様の愛を、ナザレのイエスも持ち、その愛を証しして生きた、だから宇宙を治める「ロゴス」としての愛は、神であり、ナザレのイエスなのだ、そうヨハネは書くことが出来たのです。
では、宇宙を治める原理である愛を生き、証しする、そのイエスの業とは一体どのようなものだったのでしょうか。
テモテへの手紙一には、こう書かれています。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」
イエスがピラトの前で立てた証し、それは「神様はわたしと共におられる」という証しでした。そのようにしてイエスは、十字架の死を前にした時であっても、神様が自分と共にあることを、そしてその神様の愛が自分を支え、生かしていることを、証しし続けたのです。
だから、そういうイエス・キリストの愛の業に、この世界を治める神様の愛を証しし続けたその業に、あなたたちもまた倣いなさい、それが信仰の戦いだ、とテモテへの手紙は語るのです。
わたしたちの目に見える世界は、信仰を妨げる世界です。なぜなら、目に見える様々な出来事は、神様なんかこの世にはいない、と思わせることばかりだからです。
しかしまた、だからこそわたしたちは神様を信じるのです。こんな苦しみの中では神様なんか信じても無駄だ、そう思える状況だからこそ、神様を信じるのです。信仰は苦しみの中でこそ力を発揮します。信じられないからこそ、信じることの意味があるのです。
だから、この不条理に満ち満ちた世界の中にあっても、不信の中にあっても、それでもイエス・キリストに倣い、この世界の原理は神様の愛であり、今、神様の愛がわたしたちと共にあることを告白して生きる、わたしたちでありましょう。
(2020年20206月67日7甲子園教会 佐藤成美牧師 礼拝説教より)